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梅咲天満宮(香月)


梅咲天満宮(香月)
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香月電停の目の前にあります。梅咲天満宮です。
所在地は、北九州市八幡西区楠北3丁目14

皿倉(日枝)-中山ライン上の社寺を順にみていっています。

いまでこそ 天満宮 になっていますが、この形、古墳ですよね。

香月の地名の由来は、小狭田彦が日本武尊を歓待した折に日本武尊が詠った次の歌と伝わっています。
「あな楽し、花の香り月清きところかな。今よりこの地を香月のむらと名づくべし」

香月は、もとは葛城と書いたとか。「香月氏」は、神功紀に出て来る「葛城襲津彦」の末裔だそうです。

梅咲天満宮は、まだ紹介していない別の五芒星のらせんと関わっていますが、それはまた後日。


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by furutsuki_oto | 2017-02-11 01:03 | 鞍手・宗像 | Comments(0)

中山(鞍手町)


中山(鞍手町)

物部氏が絡む産鉄地形に「中山」という地名がよく見られるようである。

ここは鞍手町の中山 (中山本村あたり)。熱田神社と八剣神社がある 剣岳 と 鷹ノ口おだ山 の間にある集落である。(国土地理院の地図では「高ノ口」と表記)

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新北物部の里である 新北 から冬至の日没のレイライン上に並んでいる。剣岳山頂には、八剣神社の上宮がある。戦国時代に剣岳山頂に城が建てられることになって八剣神社の拝殿が遷されたようだ。 こうして拡大してみると、植木の須賀神社もライン上にあるようだ。 鷹ノ口おだ山の真東に、熊襲の 江上梟師(たける)が居たという金剛山が見える。

鞍手郡野面村八所大明神並びに同社境内にあった寿福寺の古文書によると、
 昔景行天皇の御躬親豊国の土賊を誅せんと欲し、周芳の沙磨の津を解纜して筑紫に幸し、到って香月君の祖小狭田彦の方に住み給う。而して宗形県主至る。一日天気夙に起き四方佳景の庄商の丘上に映照す状を眺望し、小狭田彦を召して曰く、嗚呼好哉彼野中の丘は。朝日の直刺し夕日の暮愛すべき丘なり。朕彼地に臨幸して親しく鎮魂を為さんと欲す、汝宜しく朕が為に其の設有るべし。是に於て小狭田彦寺を其の丘に建て竜尾扈従して鎮祭す。
(中略)
小狭田彦を以て鞍手の県主と為し且つ聞の田五十丁を賜う。
とある。

現在のおだ山は、木々が生い茂っていて見晴らしが悪いが、東の平地からの眺めで代用してみると・・こんな感じ。

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鷹ノ口おだ山は、真東より南30度(四時の方向)に福智山、真東より北30度(二時の方向)に帆柱山がみえる位置にある。(皿倉山は帆柱山とほぼ重なってみえている)

日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠ったという。小狭田彦の子孫が香月と名乗った。

香月の君 小狭田彦の娘 常磐津姫は日本武尊の妃となる。常磐津姫には男子が生まれた。その名を御剣王という。御剣王は成長すると父 日本武尊の東征に従って行った。

※ 剣岳山頂は、木が伐採されて、眺望が復活しているとの情報をいただきました。
※ 記紀にある景行天皇の熊襲平定の折の行宮「高屋の宮」に対応するとも考えられる。


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by furutsuki_oto | 2017-02-11 00:24 | 鞍手・宗像 | Comments(0)

片野物部 4 津山 中山神社

片野物部 4 津山 中山神社

岡山県津山市一宮に、美作國(みまさかのくに)一の宮として崇敬を集める中山神社(なかやまじんじゃ)があります。主祭神は、「鏡作神」。

ただし、中山神社がまとめた大正時代の「中山神社資料」だと、主神は「金山彦命(かなやまひこ)」となっています。更に古く『延喜式頭注』では大己貴命(おおむなち)が祭神となっています。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』では、中山神社の神は猿神とされています。そのためか、現在は、中山神社の摂社に 国司神社(大己貴神)、御先神社(稲荷神)、猿神社(猿多彦神) が祀られています。

社伝にこんな話があります。「当地には古く大己貴命が鎮座していたが、中山神に宮所を譲ったところ、以前から大己貴命を奉じていた伽多野部長者乙丸が、それを不満に思った。これに怒った中山神の眷属・贄賄梧狼神(梧は実際には獣偏)が乙丸に祟ったので、乙丸は毎年二頭の鹿を供えることにした。贄賄梧狼神はこれを許し、牛馬市を開かせた。その後、乙丸は弓削庄に退いた。」

この伽多野部長者乙丸の屋敷地のあった場所が、後に美作国一宮である中山神社となったというのです。話の筋から中山神社創建の707年頃のことのようです。(『久米郡誌』によれば、和銅六年(713)のことだそうです。)

707年といえば元明天皇即位の年でしたか。胸形君徳善の孫の高市皇子が太政大臣になったのが持統4年(690年)ですから、その少しあと。伽多野部長者乙丸は、『中山神社縁由』や『作陽誌』では、肩野物部乙麿として出てきます。

津山市から岡山県北部(旧・建部町)の製鉄遺跡が数多くみられます。いずれも岡山県の東部を流れる吉井川水系にあります。伽多野部長者は、その名前が示すとおり河内國肩野郡にいた片野物部と同族のようです。出雲から移ってきたものか、河内國肩野からかは定かではありません。中山神社周辺では大蔵池南製鉄遺跡のすぐそばに、肩野物部氏のものと伝える長者屋敷地や、そこから西にある善福寺の成立として、肩野物部氏の妻の建立による尼寺であると伝えています。ここが本来の「吉備の中山」とする説もあります。

まーりんさんが教えてくれた儺の星の国拾遺の一文、「鍛冶場を交野(かたの)という。”かたの”とは砂礫が白く連なる河原であり、昔は”あまのかわ”であった。砂鉄の火花がさけ散るところである。」という意味を改めて見直しました。

それにしても「物部」氏と「中山」地名はセットでよく出てきます。「ナカヤマ地形」とでもいうべきものがあって、産鉄地帯となっている山と山の中間地帯をいうようです。

ところで、中山神社に稲穂を奉納する役目の半分は有木氏が務めたのだそうです。「有木」これも見た覚えが・・鞍手郡に有木郷というのがありました。現 宮若市に上有木・中有木・下有木という地名が残っています。南に望む甘南備山が饒速日尊が筑紫に降臨したという笠置山です。

中山神社がある一の宮地区の水源「黒沢山」の山頂には和銅七年創建と伝わる万福寺があります。創建以来、虚空蔵菩薩を本尊としているそうです。

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by furutsuki_oto | 2016-12-12 23:00 | Comments(2)

笠岡 七面神社

笠岡 七面神社

いったい何に呼ばれたものか、不思議なことが続いている。
椿の花弁様の渦巻模様の3つめの事例を見つけてしまいました。

場所は、笠岡市神島(こうのしま) 七面神社です。
椿の花弁様の渦巻模様が確認できます。
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瓦紋はやはりこれです。
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扁額の周りにも花弁様の渦巻。
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七面宮それ自体は名前からして鎌倉時代以降の祭祀のようなのですが、周りを見渡してビックリです。

ここは、神武東遷の折、八年間滞在し軍備を整えたという伝説の場所。より詳細にいうと、神日本磐余彦尊が滞在した所は隣の高島の王泊(おうどまり)と伝わっているのですが、神島(こうのしま)の外浦には吉備國の行館(かりみや)であったという「神島神社」がありました。

神島神社のご祭神は神日本磐余彦命(神武天皇)と興世姫命。そこは皇后興世姫尊(おきよひめ)が住まわれた宮であり、神日本磐余彦尊の行宮(あんぐう)「高嶋宮」だったそうです。 興世姫尊は記紀には記載がないお方です。寛平年間(889-898)に菅原道真公が神島神社の調査に来て、神島神社は延喜式内社に列せられました。

そして、もうひとつビックリ。高島の島民の家から耳形柄頭長剣という青銅剣が発見されて、高島おきよ館に展示されている。イランのタリシュ地方でみられる3000 年前の古代ペルシャの剣と同様のもののようだという。件の耳形柄頭長剣は高島まで秦氏の渡来物として運ばれたものであろうと推定されている。

神倭伊波礼毘古命にまつわる謎を抱えていたのだが、なんかヒントをいただいたようだ。


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by furutsuki_oto | 2016-12-11 23:16 | Comments(1)

片野物部 3 伊香色雄

片野物部 3 伊香色雄

現在の大阪府交野(かたの)市と枚方(ひらかた)市に天野川があります(古くは甘野川とも)。物部氏の祖といわれる宇摩志麻治から6代めにあたる伊香色雄が4世紀前半に天野川の南方の伊香賀(現在の枚方市伊加賀)に住み、その地域を支配したようです。ついで伊香色雄の子の多弁宿禰(たべのすくね)が 天野川流域を開拓し、淀川と天野川の合流する地域を支配したと伝えられています。多弁宿禰の末裔の一族は片野物部(かたのもののべ)となりました。

なお、多弁宿禰(たべのすくね)の母は山代県主祖 長溝の娘・真木姫です。宇摩志麻治から伊香色雄の6代は次の通りです。

 宇摩志麻治―彦湯支―出石心―大矢口宿禰―大綜麻杵―伊香色雄

宇摩志麻治―味饒田命(うましにぎた) の系統は、阿刀連になりました。

伊香色雄命の同母姉妹に伊香色謎(いかがしこめ)命がおり、8代孝元天皇の妃となり、後に9代開化天皇の皇后となり、10代崇神天皇の母となります。
伊香色謎の子孫は、伊香色謎―彦太忍信―屋主忍男武雄心―武内宿禰―葛城襲津彦―磐之姫(16代仁徳天皇の皇后)と続き物部氏は天皇家との関係を密にして大躍進することになります。

現在の大阪府枚方市枚方上之町に意賀美(おかみ)神社があります。ここは元は須加神社で、明治時代に伊加賀村宮山に鎮座していた意賀美神社を遷座合祀して今の意賀美神社になったのだそうです。意賀美神社が鎮座する地は万年寺山といい、1904年に万年寺山古墳が発見され青銅鏡8面と鉄刀が出土しました。万年寺山古墳は4世紀中頃の築造のようで、伊香色雄の没年も4世紀前半ですから、万年寺山古墳は伊香色雄の墳墓の可能性が高いと思われます。
意賀美神社の元の鎮座地である伊加賀村宮山(今の意賀美神社から約100m南)は、伊香色雄の邸宅址であったのかもしれません。


崇神天皇の7年(300年頃)に、伊香色雄命が大田田根子を神主として大和三輪に大物主神を祀ります。また、布都大神が宇摩志麻治の時代に宮中で祀られていたのを 崇神天皇の勅命により伊香色雄がご神体を石上邑の龍王山の麓の布留山に遷して石上坐布都御魂神社として祀りました(今の奈良県天理市布留町の石上神宮; 日本書紀では石上神宮とあるが、延喜式神名帳に大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社とあるのでこちらをとる)。以後、石上大明神は物部氏の氏神として崇敬されました。

なお、石上神宮は武器庫を兼ねていたらしく、桓武天皇のときに神宮の兵仗は 山城国 葛野郡に遷されたとの記事が日本後紀にあります。


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by furutsuki_oto | 2016-12-02 00:14 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

片野物部 2 倉治古墳群

片野物部 2 倉治古墳群

片野物部」で交野市北部の倉治(くらじ)地域の話を少ししました。
今日は、その続き、交野(かたの)周辺の遺跡・古墳についです。

時代別にざっくりと整理すると、交野周辺には次のような遺跡・古墳があります。

〇 縄文遺跡
 神宮寺遺跡と星田の旭遺跡は、縄文遺跡です。 狩猟・漁労・植物採取の生活をしていた集落の痕跡があります。

〇 弥生遺跡
 ご存じのように 3世紀頃までに北海道を除く全国に稲作農耕が広がって行きました。 また弥生時代の遺跡になると金属器の使用がみられます。 交野市内の弥生遺跡としては、私部・倉治・郡津に弥生集落の遺跡があります。

〇 古墳
 交野市の古墳は、鍋塚古墳・森古墳群が古墳時代前期(4世紀)、 東車塚古墳が中期(4世紀末~6世紀)のもので、寺古墳群や大畑古墳、 倉治古墳群、清水谷古墳は後期(6世紀後半~7世紀初頭)のものです。

では、名前からして気になる「倉治古墳」についてみていきましょう。

 発見の経緯は以下のようでした。枚方変電所の建設が関西電力により計画された際、昭和26年初め用地内の丸山(交野市東倉治3丁目の丘陵)が古墳ではないかという連絡があり調査が始まった。丸山そのものからは遺構・遺物の発見はなかったが、丸山の南側、「中山路」を越した付近で横穴式石室(第8号墳)が発見され、次々と全部で8基の古墳群が発見された。

 倉治古墳群の8基の横穴式石室の構造には、羨道が見られない特色がある。「秦氏」など朝鮮半島南部からの渡来系氏族に見られる構造の石室であり、6世紀後葉、郡津・倉治の地に置かれていた交野地域を統括し天野川の水運や大和への陸路をも管掌する行政機構にあってその中の中核となった官人群-秦氏の墓地であったと考えられている。倉治古墳群からの出土品の数々は、交野市立歴史民俗資料室で見ることができます。

 さて、「中山路」なるまた気になる道の名が出てきました。この道は、かつてあった中山観音寺へ続く古道です。中山観音寺は、南北朝の動乱で焼失し、今は(枚方市)観音山公園となっています。観音山公園には牽牛石(けんぎゅういし)と呼ばれる巨石があります。天の川を挟んで対岸にある交野市の織物神社に祀られている織姫と対になって七夕さまとして信仰されています。この七夕信仰は、平安時代に根付いたもののようです。

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by furutsuki_oto | 2016-11-28 19:57 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

片野物部(かたのもののべ)

片野物部(かたのもののべ)

貝原益軒の「筑前國續風土記」に次なる記事があります。
「聖徳太子の傳に曰、守屋二男片野目連、四男辰狐連等を筑前國鞍手郡に流す。」
物部守屋が討たれた(587年)のち、守屋の次男と四男が鞍手郡に流されたというのです。

ここに出てきた「片野」というのは地名からきたウジ名です。河内國に交野郡がありました。片野・肩野などとも書きますが、和名抄に「加多乃」と読むと書かれているので、今の交野市あたりのことです。交野には、星田、天野川、八丁三所伝説、機物神社の七夕伝説など星にまつわる地名・伝説が多く残っています。この地は物部氏と関係が深く、「交野物部」の本拠地でした。

交野市私市(きさいち)の哮峯(いかるがのみね)は、物部氏の始祖とされる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が肩野物部など一群を引き連れて天降った場所。哮峯の横を流れる天野川の川縁には、巨石を祭神として祀っている磐船神社があり、その祭神はニギハヤヒが天降った時の「天の磐船」とされています。『先代旧事本紀』において、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊に随行した天物部等二十五部人の中に赤間物部や筑紫聞物部、筑紫贄田物部ほかと共に肩野物部がみえます。片野物部は筑後の片野もしくは北九州の片野からここ河内の地に入ったものと推測できます。

『先代旧事本紀』天孫本紀には、物部尾輿の子の物部大市御狩連の弟に物部臣竹連という名がみえて、「肩野連。宇遅部連等祖」とされています。ここにみえる尾輿が、物部守屋の父です。

日本書紀 雄略天皇十八年八月戊申条には、「物部目連、筑紫の聞(きく)の物部大斧手を率いて、朝日郎(あさけのいらつこ)を捕えて斬る」の記事がみえます。ここに出てくる物部目連と守屋二男片野目連は同一人物でしょうか。

「聖徳太子の傳に曰、守屋二男片野目連、四男辰狐連等を筑前國鞍手郡に流す。」というのは、物部宗家失脚後、同族預かりで出自の地方に蟄居させられたということなんでしょうか。

交野市のホームページ等を見ていると、交野の歴史は、交野市北部の倉治(くらじ)地域に今から1600年ほど前に一族をひきいて帰化した漢人庄員(しょういん)が機織りの技術をもって拓いた集落に始まると伝わっているそうです。白鳳元年(672年)天智天皇の子・弘文天皇と天智の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)が対立して戦った時、交野山麓の倉治機物は大海人皇子に味方しました。戦勝した皇子は天武天皇となり、倉治機物の首長に交野忌寸(かたのいみき)の姓を与え、この一族は以後益々繁栄しましたとあります。

倉治(くらじ)地域に隣接する交野山(こうのさん)は、生駒山地の北端に位置しており、標高300mながら山頂の観音岩からの眺めは、枚方(ひらかた)や寝屋川(ねやがわ)など北摂から大阪市街、京都南部までを一望できる200度を超える大パノラマです。軍事的に重要な拠点であったことが偲ばれます。

物部守屋が蘇我氏に破れたあと、物部氏は河内の本拠地を失いますが、筑紫饒田物部の末の阿刀氏は山城国、摂津国、和泉国などに分散し官人として活躍したようです。


蛇足ですが、三代実録には片野連道主が姓を良棟宿祢に改めたことがみえます。877年のことです。道主の子に鷹狩名人の良棟宿祢相衝という人物がおり、彼の甥が『落窪物語』『枕草子』『源氏物語』などにみえる交野少将であるとされています。

(つづく)

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by furutsuki_oto | 2016-11-04 19:50 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(2)
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古月 乙彦 のブログ  神社とか星とか 古代のロマン.    Since 2016.1.22


by 古月 乙彦(ふるつき おとひこ)
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