古月のおと

furutsuki.exblog.jp ブログトップ

<   2016年 09月 ( 6 )   > この月の画像一覧

愛宕山

愛宕山

a0351692_23390497.jpg
嵯峨の兒神社の裏手から愛宕山を望む.


 写真の中央より少し右寄りのたんこぶが愛宕山山頂です。山頂には三角点があります。

愛宕山には、次のような言い伝えがあります。

|  むか~し昔,比叡山と愛宕山はお互いに「自分のほうが背が高い」と
| 喧嘩ばかりしとった。 ある日,喧嘩が過ぎて,比叡山が愛宕山の頭を
| ポカリと殴ってしもた。すると愛宕山にプク~ッと たんこぶ ができて、
| その日から愛宕山のほうが高くなったとさ。

比叡山がなんか言ってきて、あとから たんこぶ できた!?
本当ならスゴイことだ。大山咋の地元なので無きにしもあらずかな。

応援ありがとう。ポチっとね.
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

[PR]
by furutsuki_oto | 2016-09-23 23:40 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

秦氏

秦氏


 山背葛野(やましろかどの)を発展させ平安京の準備を実質的に進めた秦氏とは何者だろうか。秦氏には謎が多い。「新撰姓氏録」で、秦氏が秦の始皇帝の末裔を主張しているが、他にこれを裏付ける記事はない。

 「魏志倭人伝」には、「秦の苦役から逃れた民が馬韓(紀元前2世紀末~4世紀)へ亡命し、その東方に居住したのが馬韓人の始まりであるという旨の記述があるが秦氏との直接の繋がりは明らかではない。しかし、秦氏が大陸からの帰化人であることは疑いなく、帰化の経緯は『日本書紀』によれば、
・まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。
・弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、
・葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。
・しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。
・そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
という次第であったという。

 彼らはまず豊前に入ったようだ。「正倉院文書」に大宝2年(702)豊前の戸籍の木簡が残っている。

○仲津郡丁里(行橋の一部、豊津、犀川に当たる)秦部  239戸、丁 勝(かつ) 51戸、狭度勝(さわたり・かつ) 45戸、川辺勝 33戸、古溝勝 15戸、大屋勝 10、高屋勝 3戸、阿射彌勝 1戸、黒田勝 1戸、門勝 1戸、田部勝 1戸、物部 4戸、車持部 3戸 、鴨部 3戸、大神部2戸、日奉部 2戸、宗形部 2戸、難波部 2戸、矢作部 1戸、中臣部 1戸 膳臣1戸、津守 1戸、呂部 1戸、建部 1戸、 錦織部 1戸、高桑部 1戸、生部 1戸、春日部 1戸、刑部 1戸、無姓 49戸、不詳 2戸。
○上三毛郡塔里(とうのさと)(唐村のある大平村=旧上毛町あたり)秦部66戸、塔勝 49戸、強勝 1戸、調勝 1戸、梢勝 1戸、楢勝 1戸、難波部 2戸、海部 1戸、物部 1戸、膳大伴部 1部。○上三毛郡加自久也里(かしきえのさと?)(築上町あたりか)秦部 26戸、河部勝 16戸、上屋勝 13戸、膳大伴部 4戸、飛鳥部 4戸、刑部 1戸、膳部 1戸、浴部 1戸、無性 7戸。」
(すべての戸主名から一歳の緑児まですべての家族の全記録付記。)
・・・

 ここで、「勝=かつ」 とは秦氏の族長の呼称であるようだ。

 こうした記録と6世紀末の遺跡・古墳群の発掘から、豊前に秦氏が最初に入ったことは間違いないと思われる。

 秦氏は、土木、養蚕、発酵技術をもつ集団であるうえに、田川郡香春や山口県で銅山開発にあたった鉱山開発・冶金技術をもった集団でもあった。

 秦氏の豊前入植は少なくとも6世紀までにあった。山背秦氏の記録が秦河勝・聖徳太子の6世紀であるから、4、5世紀までに豊前に定着していた豊前秦氏が、6世紀頃に山口県や讃岐を経てさらに東へ移動したと思われる。移動してきたという内容は、山背(桑田・葛野)の数々の伝承や古墳が造営された時期にもあっている。

応援ありがとう。ポチっとね.
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

[PR]
by furutsuki_oto | 2016-09-22 20:27 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

北野天満宮

北野天満宮


a0351692_21392468.jpg
(写真は、北野天満宮HPから)

京都の北野天満宮(旧称 北野神社)です。主祭神は、菅原道真公。
相殿に、中将殿(菅原高視; 道真長子)、吉祥女(道真正室)を祀る。
天暦元年(947年) の造営。

星神を祀る大将軍八神社の真北、すぐ近くにあります。
大極殿から真北にあるから 北の神社 と呼ばれたとか。
北野天満宮の上に北極星が輝くことになるわけです。

見どころのひとつ、三光を祀るという三光門の浮彫。
a0351692_21393847.jpg
「日・三日月・満月」のように見えますが、言い伝えでは、「日・月・星」なんだとか・・

ちなみに、門を修復し、色をつけたのは秀吉さんの時らしい。


星は金星? それともベガ?


応援ありがとう。ポチっとね.
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

[PR]
by furutsuki_oto | 2016-09-14 21:51 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(10)

千歳(亀岡)の愛宕神社


千歳(亀岡)の愛宕神社

a0351692_12391500.jpg
(写真は、亀岡市観光協会のHPから)

京都府亀岡市千歳町国分にある愛宕神社です。旧称は「阿多古神社」。
主祭神は、火産霊神(軻遇突智神)、伊邪那美神、大国主神 の三柱。

摂社に 豊受比賣神社、火防神社(迦倶槌神)、稚産霊神社、埴山姫神社、
少毘古那神社、蛭子神社、高良玉垂大神(武内宿禰)、天満宮社、
萩森大明神、宇都宮大明神、大山咋神、大山祇神。

社伝によると創祀は神代。山を神籬として祀られたという。その後、
継体天皇元年(507年?)に社殿が創建されたと伝わる。

文献での初見は、『日本三代実録』では、「阿当護神(愛当護神)」
の神階が貞観6年(864年)に従五位下、貞観14年(872年)に
従五位上、元慶3年(879年)に従四位下に昇叙されたと見える。

また、『延喜式』神名帳には丹波国桑田郡に「阿多古神社」として
式内社の記載がある。社伝では、当社の分霊が京都鷹ヶ峰に祀られ
た後、和気清麻呂により嵯峨山に遷され、これが現在の愛宕山の
愛宕神社になるとしている。そのため「元愛宕」「愛宕の本宮」とも
称されるほか、社殿には当社が全国の愛宕神社の総本山であると記載
してあり、鳥居脇の社号標にも「本宮 愛宕神社」と記している。

驚きました。丹波の千歳の愛宕神社が、今の愛宕山(嵯峨峰)の愛宕神社
の元宮なんですね。平安京の準備の頃に遷ったということになります。
しかも最初は鷹ヶ峰に祀ったといいます。

そういえば、先日、平安京とともに作られた大将軍八神社のところで、
スーパームーンが沈むのは愛宕山のうちでも嵯峨峰でなくて大鷲峰の方で、
平安京を準備する頃、そこに月輪寺が開基されたとみたばかりでした。

「鷹ヶ峰」とは「大鷲峰」のことなのか? 北区の「鷹峰」と混同してる?

ともかく、丹波の千歳の愛宕神社(阿多古神社)の方が古く、祀られ始めた
のは、「丹の湖」伝承にあるの桑田開拓のころで、「おほ」の一族が持ち
込んだと思われます。

阿多古神社の元宮が、遠賀川水系にあるにちがいないと思った古月でした。

応援ありがとう。ポチっとね.
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

[PR]
by furutsuki_oto | 2016-09-12 07:37 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(2)

大将軍八神社


大将軍八神社


a0351692_21023850.jpg


ここは、北野天満宮のすぐ真南にあります。
拝殿正面の 六芒星 と 八角 をあしらった石柱が印象的です。

大将軍八神社の起源は、平安京造営の際、陰陽道に依り大内裏(御所)の
北西角の天門に設けた「大将軍堂」です。
大将軍とは、方位のことを司る星神さまです。
ここは、平安京ができた当時の陰陽道の中心だったのです。

陰陽道の資料を納めた方徳殿の公開は年二回、5月1日~5日と11月1日
~5日で、予め連絡すればそれ以外に日でも拝観可能となっています。
方徳殿の一階は素晴らしい「立体星曼荼羅」、二階には神社の歴史・
陰陽道や天文学に関する貴重な古資料があります。

a0351692_21030991.jpg
大将軍八神社の御朱印帳とお守りは、天文ファンにはたまりません。

以前、渡月橋ちかくの法輪寺の住職の法話で、月の観測の話が出て、
秦氏は日枝の山から昇り愛宕に沈む月、東山から昇り松尾に沈む月を
観測していたということを聞きたように思います。
ここがその観測点ではないかと思い、作図してみることにしました。

衛星写真をもとに線で結んでみると・・・

a0351692_21085451.jpg

パーフェクトです。

蛇足ですが、愛宕鎌倉山(大鷲峰)の月輪寺の開基は8世紀ごろのようです。
その際、銅鏡が出土して、そこに「奇観自在、照体普弥綸、仏祖大円鑑、
人天満月輪」という銘があったことから、月輪寺というそうです。
やはり、開基が平安京の準備の時期に重なっています。しかし鏡の存在が、もっと古い時代からの月観測との繋がりを示しているようにも思われます。

初稿で書いたのはここまでだったのですが、ちょっとまって。
上の図、開いている角度が26.5度ですね。
30度でキチンと線を引きなおしてみます。
a0351692_12245615.jpg
月輪寺が外れてしまいました。神護寺の方がしっくりきます。

神護寺は、もとは高尾山寺といって和気清麻呂が天応元年(781年)に建てた私寺でした。
和気清麻呂は、平安遷都の提唱者であり、また新都市造営の推進者です。高尾山寺も国家安泰を祈願して建てられました。

神護寺(高尾山寺)も愛宕五山に数えられます。ただ、愛宕山頂と比叡山頂を印としていたとすると、大将軍八神社よりもう少し南西にズレた場所に本来の古い時代の観測点があったのかもしれません。ここは、より古い観測点があったが平安京遷都時に少し離れた大将軍八神社の場所に観測点を遷したのだろうと考えておきます。

吉祥院天満宮は、菅原家が信仰する吉祥天を祀る吉祥院を邸内に建立し氏寺としたのが始まりだそうで、道真公生誕の地ともいわれます。吉祥天の垂迹が七面天女ですね。

応援ありがとう。ポチっとね.
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

[PR]
by furutsuki_oto | 2016-09-11 08:46 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(2)

桑田(亀岡)の松尾神社

桑田(亀岡)の松尾神社

a0351692_11011234.jpg

 松尾さんといえば松尾大社が有名ですが、京都には松尾大社とは別に松尾神社もあります。

所在地は、京都府亀岡市旭町(旧 丹波國桑田郡)です。松尾大社から保津川(桂川)を 15km ほど遡上したところ、交通アクセスでいえば、JR嵯峨野線の八木駅から東へ2km程のところです。ここは亀岡市と南丹市の境界でもあります。

 「延喜式」神名帳に丹波国桑田郡「松尾神社」と記載された式内社で、ご祭神は、大山咋命と市杵嶋姫命。境内社に 大己貴神社 (大国主神)、蛭子神社 (恵比寿神)、天満宮社 (菅原道真公)、八幡神社 (応神天皇)、天照大神社 (天照大神)、 素戔嗚神社 (素戔嗚神)、 罔象神社 (罔象女神)、 高房神社 (経津主神・武甕槌神)、 今宮神社 (素戔嗚神)、 稲荷神社 (宇賀之御魂神) があります。

 桑田の松尾神社の社伝によると、和銅年間(708~715)の創祀となっていて、更に境内の案内板には、秦川勝が聖徳太子の命を受けて祀ったとあります。亀岡~南丹には和銅元年(708)頃に大神狛麿が丹波国主となり創始したという神社が多くありますが、そんなにポコポコと創建できるはずもなく、おそらく中興の意味です。「秦川勝が聖徳太子の命を受けて祀った」とあるので、そこから類推しても祭祀は少なくとも600年前後にまで遡るということになります。ここは松尾大社よりも古いのかもしれません。

 このあたりは、口丹波(くちたんば)といって、「丹の湖」伝承の地です。大山咋が出雲から来た神々とともに「丹の湖」の水を抜いて拓いたと伝わります。周囲には「千歳車塚古墳」をはじめ、多くの古墳が点在しています。保津川の名も、大物主の后の三穂津姫命にちなむとされています



応援ありがとう。ボチっとね.
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

[PR]
by furutsuki_oto | 2016-09-10 11:04 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(1)
line

古月 乙彦 のブログ  神社とか星とか 古代のロマン.    Since 2016.1.22


by 古月 乙彦(ふるつき おとひこ)
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31