古月のおと

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カテゴリ:大地に刻まれた時計( 8 )

月鉾の時計草

月鉾の時計草

このブログの「ロゴ画像」の説明をしていませんでしたね。京都の祇園祭の「月鉾」です。2014年の夏に仕事帰りに撮影しました。

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紋は、左三つ巴 と 五瓜に唐花の木瓜 ですね。(渦と五角形ですよ!)

月鉾といえば、月鉾の兎と亀の彫刻が左甚五郎作ということで有名です。

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「月」「鉾 (剣)」「左三つ巴」「蕨手」「兎」「亀」これだけでもいろいろ示唆されるものがあります。

しかし今日は、右上隅に写っている「時計草」にあえて注目してみたいと思います。

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花びらのように見えるのはガクで、ガクが十枚、雄しべが5本、時計の目盛りのごとき線状の花びらが100本。

「時計草」、そして時計草にまつわるこの数字。 このブログを隅から隅までお読みの方には ピンとくるものがあると思います・・

時計草は、実在する植物です。パッションフルーツといえば判かるでしょうか。

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時計草は亜熱帯の植物です。平安の昔もしくはそれ以前にこれが知られていたことが驚きです。なにより原産地はアメリカ大陸とされていたりします。謎です。


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by furutsuki_oto | 2016-05-03 15:47 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

100刻制と十干

100刻制と十干

星見の民の暦において、一日は十の刻(とき)に分けられていたに違いないというようなことを書いてきた。一日を十の倍数に分割するというのは、実際のところあったのだろうか。

現代の中国では、刻(こく)と言えば、15分間のことを指すらしい。「刻」という名称は、漏刻(水時計)の刻み目に由来するらしいが、これが実は100刻制に由来するそうだ。中国では前漢の時代に1日100刻制が確立した。1日は86400秒なので、1刻は864秒(14分24秒)となる。

100刻制は明末期の1628年まで残る。現代の中国での「刻」は15分という感覚は、この辺りから来ているらしい。

日本では、100分割の刻は天文や暦学の分野で使用され、日常的に不定時法が採用されてからも、天文時間では等分のままであった。


100刻を短く表記するには、十の要素を更に十分割すればよい。10の要素は、古来、「十干」すなわち 甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸 と表記されてきた。「十干」は「天干」ともいう。

十干は、五行と陰陽の組合せで木兄(きのえ)・木弟(きのと)・火兄(ひのえ)・火弟(ひのと)・土兄(つちのえ)・土弟(つちのと)・金兄(かのえ)・金弟(かのと)・水兄(みずのえ)・水弟(みずのと)とも表現される。

十進化時間は、東洋だけではない。フランス革命暦の時間の単位は、一日を十の刻に分ける十進化時間制だった。
あと、最近では、スウォッチ・インターネットタイム(Swatch Internet Time)が十進化時間になっている。


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by furutsuki_oto | 2016-02-27 21:15 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

月守の暦

月守の暦(中編)

前編では、六曜が本来的には「月の位置」から時刻を知るための
日単位の補正表であることを述べた。

これはなかなかよくできている。月の位置を読んで、六曜の補正を加えると、現在時刻が出てくるのである。


星読と月守の併存時代、これは、星読にも影響を与えたに違いない。星読は、もともと真東が昇る星から時刻をとても正確に知ることができた。そして月守の工夫を応用すれば、今度は黄道上の明るい星からも時刻を知ることができるようになる。

まずは月に当てはめた六曜の補正で大雑把には季節の黄道の傾きの違いによる昼夜の長さの違いを補正できるだろう。しかしながら、星読の測定への要求精度にはマッチしない。

六曜は、月にも日にちにも充てられた。それなら、時刻にも充てていけば細密化できると考えるだろう。五芒星のドラゴンカーブを使って観測精度を上げた星読ならば、そう考えるのはとても自然だ。

そんな例は古今東西知られているのか。
実はとても身近にある。

現在の太陽暦で使われている月火水木金土日の七曜は、西洋の七曜からきているが、西洋の七曜は、古くは東洋から影響を受けたものであり、もともとは時刻を支配する曜が一義的なもので、日にちにつく曜日は、その日の0時の曜を指しているにすぎない。
また西洋では、各時刻を支配する曜には北欧の神の名がついているが、これはカトリックの北欧伝導時の影響である。
(詳しくはWikipedia等でご覧ください)

現在の曜日で使われている七曜は、もともと各時刻を支配する曜なのだという。これ大事です。



このやり方は、古代のバビロニア人にまで遡るようだ。


ここで、バビロニア暦の考え方も挙げておく。

バビロニア人たちは、春分の頃の新月の直後を元日とする。
そして、1日を24時間として七曜に対応する神が毎時それぞれを順番に支配するという考え方をした。

本源的な曜の並びについては、地上から見える五惑星、太陽、月
を最大角速度が遅い順に並べて、
土 木 火 日 金 水 月 とした。
(ここでは簡便のために神の名ではなく漢字一文字で表した)

これを各時刻にあてはめると、次のようになる。

    01 02 03 04 05 ・・・ 20 21 22 23 24
第1日 土 木 火 日 金 ・・・ 水 月 土 木 火
第2日 日 金 水 月 土 ・・・ 木 火 日 金 水
第3日 月 土 木 火 日 ・・・ 金 水 月 土 木
第4日 火 日 金 水 月 ・・・ 土 木 火 日 金
第5日 水 月 土 木 火 ・・・ 日 金 水 月 土
第6日 木 火 日 金 水 ・・・ 月 土 木 火 日
第7日 金 水 月 土 木 ・・・ 火 日 金 水 月

つまり、曜日の並びは、時刻の曜から二次的に出てくるのである。

小学生の頃、曜日の並びは何の順番なのか先生に訊いても判らなかったが、こういう理由で決まっているのだった。


しかし、バビロニア暦は、時刻を支配する神の考えがどこから出てくるかは説明してくれない。

おそらくバビロニア人よりもより深く月の動きを観察した民族がいて、彼らは24時間ではない時間分割をしていた。バビロニア人は、その時刻を支配する曜の考え方だけをとったと思われる。


それで、各時刻を支配する曜とは何なのかというと、各時刻が更に細かい単位に分割されて、そのそれぞれに曜が充てられていたと考えると合理的なものになる。

各時刻が更に細かい単位に分割して、七曜を当てるのが時刻の補正表をつくるためなのだとしたら、1時間は何分割されていたのだろうか。

おそらくノギスや計算尺で使われる考え方が使われた。つまり、1時間を8分割して、七曜をあてて、時刻が進むごとにひとつずつ曜がズレていくようにしたものと推察とれる。

つまり、
第一日が土曜日だとしたら、その日の最初の時刻が土に支配されるという意味である。それは、その日の最初の時刻を八分割したより小さい時間単位が 土 木 火 日 金 水 月 土 というように
「土」で始まり「土」で終わるということだ。これが、その時刻が「土」に支配されるという意味だろう。

ノギスのように一目盛ずらした目盛りで黄道上の宿を読むことで、とても正確な時刻の補正表が手に入る。こんな考え方だったと思われる。


今日も随分と長くなったので、一旦、話を区切ることにします。
後編で、最後まで説明できるかなぁ・・



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by furutsuki_oto | 2016-02-17 12:27 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

月守の暦(前編)

月守の暦(前編)

「月守」は、天にかかる月から日と時刻を知る術をもっていた。
ただし、月の位置が直接時計の針になるわけではない。

季節によって多少差はあるが、月は毎日、約50分ずつ遅く出る。季節による増減がこれに加わる。季節による増減は、黄道が赤道に対して23.4°傾き、更に白道が黄道に対して5°傾いているからである。

時計の針にする星が赤道から離れるほどに、星の高さ(角度)への季節の影響が大きくなり、星や月の位置から正確な時刻を読み取るのは困難になる。

月の位置を時計の針にするには、補正が必要なのだ。おそらく、「月守」は、月の位置から時刻を読み取るための換算表をつくったのだろう。彼らが使った観測装置からどこまで彼らの暦にせまれるだろうか。


さて、「月守」の精密な換算表を考える前の準備として、江戸時代に使われた日単位の簡単な換算表についてまず学ぶ。


日単位の簡単な換算表は六曜と呼ばれる。

六曜とは、七曜との混乱を避けるために明治期につくられた用語だが、七曜と区別するうえで便利なので、ここではその名を採用することにする。

現在の太陽暦の時代においては、六曜は、月の日にちとの関係が一見して良くわからず、規則的でありそうな、そうでもなさそうな不思議なものとして一種のゲン担ぎの占いのようになってしまっているが、本来は、月の位置を時計とするための補正表だったのだ。

月は日々約30分の1日ずつ南中が遅れる。
簡単のために、この遅れ時間を時刻の単位とする時計で考える。
つまり一日を30の刻(とき)に分ける時計を考える。

天の黄道と白道は5°ずれているだけなので、これから展開する議論においては、その差は無視しておいてよい。

一日を30の刻(とき)に分ける時計なので、赤道を30分割した30の宿(しゅく)を考える。月が日周運動で、この宿のひとつ分を周る時間が刻(とき)の一単位である。また、月は毎日この宿をひとつずつ東へ巡っていく。

月の位置を時計の針とすると、この時計の針は、計りたい時刻に対して、毎日刻(とき)の一単位分遅れる時計である。更には白道と赤道の傾きからくる季節差も重なってくる。

月の位置から時刻を知る補正表をこの宿を用いてつくることができる。それが六曜だ。

江戸時代に使われ、現在も残っている六曜は、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六種の曜である。太陰暦の場合、毎月1日の六曜は、月を表す数字を6で割った余りで決定される。(閏月は前の月と同じになる。)

また日が進むにつれて六曜もひとつずつ進む。月日により六曜が決まることになる。

結局、六曜の定義としては、太陰暦の月の数字と日の数字の和を6で割った余りで決定することになる。


おもしろいことに、年間の催事の六曜と月の形が固定する。

例えば次のような具合である。
元旦   1月 1日 (太陰暦):1+1=2, 2÷6=0余り2→先勝, 朔
七夕   7月 7日 (太陰暦):7+7=14, 14÷6=2余り2→先勝, 上弦
七五三 11月15日 (太陰暦):11+15=26, 26÷6=4余り2→先勝, 満月

月の形で日にちを確定させると、こんなメリットがあるのだ。

一日を30の刻に分割するとすると、
月の位置を時計の針とするための補正表は次のようになる。

       一週 二週 三週 四週 五週
第1日 先勝 +0 +6 +11 +17 +23
第2日 友引 +1 +7 +12 +18 +24
第3日 先負 +2 +8 +13 +19 +25
第4日 仏滅 +3 +9 +14 +20 +26
第5日 大安 +4 +10 +15 +21 +27
第6日 赤口 +5 +11 +16 +22 +28

六曜なので各週はもちろん六日間である。
七日めは翌週だ。五週(つまり30日)で1日分の遅れを取り戻す。

ここで、第一週は、必ず新月から始まる。
誤差を累積させないために、毎月ついたちで六曜は振り直す。
(そこが周期性が乱れる部分にみえる)

これはなかなかよくできている。六曜で針の読み方を変えるのだ。つまり、月の位置を読んで、六曜の補正を加えると、現在時刻が出てくるのである。

ここまでの方法に五芒星は要らない。
六曜の補正表は、一日単位の補正を可能にしている。
六曜は、一日を30の刻に分割した際に有用である。
江戸時代の使い方はちょっとおかしい。


さて、いよいよ本題の「月守の暦」をひもとく準備ができた。
五芒星のドラゴンカーブを利用する「月守」たちは、もっとうまいことやっていた。先の六曜の補正表は、一日単位のものだったが、もっと進んだより精密な補正表を使っていたに違いない。先の六曜の補正表は、一日単位のものだったが、もっと進んだより精密な補正表を使っていたのだ。彼らは、時間分解能3分間で観測された「星読」の成果のうえに乗ることができた。

だいぶ、長くなったので今日はこの辺で一区切り。続きは次回に。


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by furutsuki_oto | 2016-02-15 00:12 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

星読みの暦

星読の暦

「ひもろぎ逍遥」で紹介された鞍手の「星読みの民」、
ここでは単に「星読」と呼ぶことにする。

「星読」は、「地に刻まれた時計盤」を使って、その日に真東
から昇る星や 東方最大離角にある金星から正確な時刻を読み
取る技をもっていた。

「星読」は、五芒星をタイリングしたドラゴンカーブを使って
精密観測を行っていた。

今日は、そこから推定される「星読の暦」について考えてみよう。


しかし、その前に太白の暦をざっと理解しておく必要がある。

太白の動きを知る人たちは、太白が天に留まる5つのポイントが
あって、その星座で季節が知れること、これを地上に写した
五芒星を描くことで星から時刻が知れることを知っていた。

彼らは地上に刻んだ五芒星を使って、見えている天(黄道)を
天頂基準の10の区分に分けた。

天には、見えている天(つまり「陽」)と見えていない天
(つまり「陰」)がある。従って、一日は、五芒星を使って
20の刻(とき)に分けられた。

1刻を表す20分画のひと目盛りは、360°÷ 20 = 18°である。
この1刻で星は18°動く。シリウスと三ツ星の経度に相当する。

太白が宿る5つの宮は、五惑星に結び付けて色が充てられた。

ここで、五惑星は すなわち、土星、木星、火星、金星、水星
である。(ここでは、地上から見える最大角速度が遅い順に
ならべた。五行の並びとは違うので注意)

これに対応する五色は、蒼(青)、黄、朱(赤)、白、玄(黒)である。
まんま星の色である(水星が黒なのは、日面通過のとき最もその
存在を示すから)。

太白の暦は、一日を 20の刻に分け、ひとつの五芒星でその刻を
よみとった。20を数詞で表すのも象形で表すのも大変なので、
五色と四獣だったかもしれない。十刻と陰陽だったのかもしれない。
いずれにせよ、一日を20の刻に分けた。


太白の暦の利点は、空がせまい谷でも利用できることである。
ただ、黄道を見ていた点において、大雑把な時間把握だったと
思われる。


さてようやく「星読の暦」の説明に入る準備ができた。

まず、「星読」は黄道と赤道の区別がついており、正確な時間を
測るためには、赤道上の星を使うべきであることを知っていた。

また、五芒星をタイリングしたドラゴンカーブで、精密観測を
行っていた。

鷹ノ口おだ山のドラゴンカーブは、4.5°刻みの目盛りを刻んで
いた。これは、赤道を80分割する目盛りである。

80分割には陰陽と八方位そして五色の考え方を使ったと思われる。
4.5°の目盛りからは、45°ずつの方位も出てくるのである。

彼らは恐らく見えている南天を東の空と西の空に分けて考え、
それを五芒星に内在する角度から出てくる五色で更に5分割して、
一日を20の刻に分けた。20の刻は太白暦の継承でもある。

鷹ノ口おだ山のドラゴンカーブは、これを更に四分割する4.5目盛り
を与えてくれる。そして読み取りに際し、さらに6分割することで
時間分解能3分の時計を実現していた。

「星読」は、赤道上を動く星を精密観測していたのだ。

彼らはまた、シリウスや8年で5回の東方最大離角をとる金星を
精密観測し、一年が 365.25日 であることを知っていた。

知っていたうえで、周辺の首長たちの召集には太陰暦を用いた。
すなわち、月が無い朔が「ついたち」、三日月が「三日」、
十五夜が十五日という月の形を見れば何日かわかるという方法だ。
星読みは、朔日に首長たちを召集し、うるう月や種まきの旬を
告知した。


鷹ノ口おだ山から見える帆柱山・金剛山・福智山との角度から
判ることだが、彼らは、19年毎のスーパームーンを観測していた。

何のためか。一朔望月は 29.530589日なので、月の満ち欠けだけ
で日にちを決めるやり方だけを押し通すと季節とのズレが激しく
なる。そこで19年に7回の閏月を入れる太陰太陽暦に改良した。

19年に7回閏月入れると、19×12+7で235朔望月である。
これなら19年が6939.688日となる。19太陽年の6936.280日と
極めて近い。
このやり方は、ギリシャでは紀元前433年には知られていた。

「星読」は、現代にも通じる正確な時刻を知る術と太白の動き
から精密化した太陽太陰暦をもっていた。

以上が、星読の暦について、彼らの観測装置から推定したこと
である。


次回は、月の位置から時刻を読み取る方法を編み出した
「月守の暦」を予定しています。


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by furutsuki_oto | 2016-02-07 12:03 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

天の基準点

天の基準点
2016年1月30日

先日、「大地に刻まれた時計」で、時計のない時代から意外にも
精密な天文観測が行われていたこと、黄道と赤道の区別がついて
いて、星を使って正確な時刻を把握していたことを述べた。

しかし、毎日真東から昇る星を時計の「針」とするには、天の
基準点と星図(もはくは基準点との時間差を確定する星表)が必要
である。

古来よりおとめ座のスピカは、春を代表する1等星として知られ
ている。秋分点に近いところにあるために、春分の太陽が沈む頃
に スピカが ほぼ真東の空に輝く。そのため、スピカには 麦の
刈り入れを知らせる星として「麦星」との名もある。

スピカが秋分点の近くにあると述べたが、より正確には、秋分点は
スピカの西方約24°に移動してしまっている。
しかし、1700年ほど前はほぼぴったり秋分点であった。


もうひとつの天の基準の採り方は、春分点である。
実際、現代の星図は、春分点を天の赤道の経度の基準点としている。

春分点とは、太陽の通り道である「黄道」と、恒星が真東から
上り真西へ沈むラインである天の「赤道」の交点にあたる。

昼と夜の長さが等しくなる春の彼岸の中日に太陽が居る方角が春分点
である。


前回も少し言及したが、春分点は黄道上を少しずつ西へとズレていく。
より具体的には、約2万5800年で黄道を一周する。


現在の春分点は「うお座」にあるが、2000年前には牡羊座にあった。
その痕跡は、西洋占星術に残されている。
日本で一般的なTropical式西洋占星術はは牡羊座を基準にとる。

今より4000年前(BC2000頃)には、春分点は牡牛座のアルデバランと
昴(すばる)の中間ほどにあった。、
アルデバランは、牡牛座の眼にあたる赤い1等星である。
昴(すばる)は、八乙女ぼしともいう(西洋ではプレアデス星団という)。

昴の明るい星は七つしか見当たらないが、八乙女のうちの一人は、
天から落ちたので、七人になったと伝えられている。

日の出前の昴(プレアデス)を種まきの準備の目印にしていたという
言い伝えは世界各地に残る。


BC2000年といえば、ヒッタイト人がアナトリアで鉄器を作っていた
時代である。

バビロニアの占星術に起源をもつというSidereal式の占星術では、
牡牛座をサインの基準にとる。

この頃の春分点は、おもしろいことに全天一明るいシリウスと、
オリオンの三つ星とを結ぶ線の延長上にある。きれいに一直線に
ならぶ。三つ星の中星がちょうど中間にくる。

そして三つ星の中星とシリウスの経度差がちょうど18°の関係に
ある。これは金星の五芒星の天を5の倍数に分ける考え方にとって
都合がよい。

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一方、バビロニア人は、60進法を発明し、星が15°進むのを60分
として、一日を 24時間にわけた。

六嶽の周囲に五芒星のパターンを展開した人たちの流儀は、
バビロニア人の流儀とは異なっていたようだ。
金星の動きとシリウス-三つ星 に由来すると思われる18°分割を
徹底して採用している。


シリウス-三つ星-春分点の一直線の関係は、紀元頃までには通用
しなくなってくるが、

・牡羊座や魚座に明るい一等星がなかったことと、
・三つ星が天の赤道上にきたこと
・シリウスと三つ星の間の角が 15°や18°の目安となったこと

から、三つ星は海の民にその後も信仰されていったようだ。



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by furutsuki_oto | 2016-01-30 23:04 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

大地に刻まれた時計


大地に刻まれた時計

2016年1月29日

古代の「星読みの民」は天の星から正確な時刻を知る術(すべ)を
知っていた。

天の星を「針」に、大地に刻まれた目盛りを「時計盤」にして時刻を
知る方法について説明しよう。

星図がしっかりと出来上がれば、地上の目印を針に、星空を時計盤
にすることもできるが、まずは、天の星を「針」に大地に刻まれた
目盛りを「時計盤」にする方法から説明することにする。

「針」は毎日違う星を採用する。毎日、真東から昇る3等星以上の
明るい星を「針」として採用する。これは、黄道と赤道が傾いて
いるためだ。

赤道から遠い星を採用すると、季節によって(また時間帯によって)
時計の進み方が変わってしまう。 
だからその日に真東から昇る星を時計の針に採用する。
星占術が、日々真東から昇る星を重視するのも同じ理由だ。

五芒星を大地に刻めば、 180°÷ 5 = 36° 毎の目盛りができる。
そして、真東から昇る「星」を針に、この目盛りを時計盤にすれば、
大まかな時間を知ることができる。

目盛りが精密になれば、読み取れる時刻も精密になる。

毎日違う星を針にするから、天に基準を決めて、個々の星の基準から
の角度を知っておく必要がある。

天の基準点としては、明るくて、春分点もしくは秋分点に近い星が
望ましい。 春分点と秋分点で天の赤道と黄道は交差するからだ。

うってつけの星がある。「スピカ」だ。
スピカは「秋分点」のすぐ近くにある一等星である。

星空を見上げてスピカを見つける簡単な方法は、春の夜に北斗七星
の取っ手の部分からうしかい座のアークトゥールスまでの長さを同じ
分だけ伸ばしてみる。スピカはそこにある。

なお、この線のことを天文同好家は「春の大曲線」と呼ぶ。
春の大曲線は、北斗七星(北辰)が支配している。

スピカが秋分点に近いことは、人類は古くから知っていた。
テーベの神殿は紀元前3200年前に建てられた時、スピカの方向を
向いていた。

紀元前150年頃のギリシャの天文学者ヒッパルコスは、黄経180度、
黄緯0度にほぼ近い位置にあるおとめ座のスピカを使い、皆既月食の
時に月とスピカの角距離を測った。

日食や月食は黄道と白道の交点でしか起こらないので、日食・月食時
の月や太陽は必ず黄道上にいる。したがって、この皆既月食時の月と
スピカとの角距離は、そのままスピカと月または太陽の黄経の差となる。

ヒッパルコスはこの黄経の差を、彼の時代より約150年前(BC300年頃)
のティモカリスが作った星表と比較して黄経の値が変わっていること
を発見した。

彼はスピカ以外の恒星についても同様にズレていることを見つけ、
このズレは黄経の基準である春分点自体が移動しているためであると
結論した。

紀元前100年頃には、ギリシャ周辺の海の民も、スピカが秋分点に
極めて近いことのみならず、春分点・秋分点が僅かずつ移動している
ことまで知っていた。

さて、「ドラゴンカーブ 2」 で紹介したパターンは、更に巧妙に、
次の図に示すように、4.5°ずつの目盛りを大地に刻んでいる。

a0351692_23173926.png

24(時間)×60分÷360°×4.5°= 18分

つまり、天に見えている恒星は、18分毎にこの目盛りを
ひとつずつ進む。

遠くの隣接する2点の間を目分量で六分割することは簡単
だから、当時、この目盛りを用いれば、時刻にして
18分間÷6 = 3分間 の精度 (角度にして 0.75°の精度)で
天体現象を観測できたことになる。

この目盛りが大地に刻まれた当時、角度にして 最悪でも
0.75°以上の精度で天文現象を把握していただろうことは
想像に難くない。

太陽と月の視直径は 約0.5° なので、皆既日食を予言して
いたとするならば、少なくとも0.2° 程度の分解能で天文
現象を観察していたはずで、そのための観測装置があって
しかるべきである。

先日の「ドラゴンカーブ 2 鷹ノ口おだ山」と比べてみよう。

a0351692_10382203.png


古代の星の民たちは、我々が古代に対して持っている印象
(先入観)よりもずっと高い精度で星を観ていた。

長くなったので今日の所はいったん話を区切ることにする。

読者の皆さんの頭の中には、

 ・毎日かわる「針」の位置の違いからくる時間差は
  どうやって知るの?

 ・夜は星が時計になることは解ったかったけど、
  昼間はどうやるの?

 ・金星は? シリウスは? オリオンは?

という疑問がでていることと思う。
次回以降、それらについても追々説明してゆこうと思う。


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by furutsuki_oto | 2016-01-29 23:09 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

金星の宮

金星の宮


2016年1月24日

「ひもろぎ逍遥」の「脇巫女」シリーズで、るなさんが「月守」を
追いかけている。

小狭田彦が 月守を打ち破ったというストーリーだ。

その話に沿って解析してみて、六嶽をめぐる五芒星のドラゴンカーブ
ほかの図形が見つかった。

最初のドラゴンカーブが見つかったのは、正月2日のことだった。
今ではもっと複雑なものも見つかっている。
リアルタイムでブログ書けないのがもどかしい。

件の「鷹ノ口おだ山」の 小狭田彦の御子 御剣王の聖地は、
「鷹ノ口おだ山」の五芒星の右足の付け根部分であろうと
推理した。

新幹線と高速の交差するすぐ南のところだ。
(本件、ブログ「地図でつなぐ聖地の旅」のチェリーさん
には大変お世話になりました。)

御剣王の話にかかわる前、私は布留神社と保食神を追っていた。
また、七色には鞍手や小竹にいっぱいある貴船神社と更に
その古層と思われる龍神社の情報を提供していた。

布留、保食、龍を祀る民は、香月よりも古い時代の鞍手の民だ。
彼らは太白暦だったようだった。

そこでまず最初にやったことは、金星の宮を探すことだった。
正月元旦のことである。

探し方の方針は簡単だ。 金星の為の18°間隔の目盛りが
フルセットで残っているところはどこだ?

そういう見方で線を引いていった。結果が次の図である。

a0351692_13415281.png

ちょっと図か小さくて見にくいがご容赦いただきたい。
要は、線が集まっているところが金星の宮の候補地だ。

一番しっかりと残っていたのは、神崎。 神崎神社ではなく、
昔は淡海であったであろうところを挟んだ対岸の丘の上である。
保食神を祀る荒五郎山の南にあたる。

二番目は、布留神社上宮にあたる龍神社址である。ここは予見
どおりというところか。

そしてもうひとつの金星の宮が 鷹ノ口おだ山 にもあった。
そのときはまだ、そこが 鷹ノ口おだ山 という名前だとは認識
していなかった。

正月2日には六嶽を取り巻くドラゴンカーブの一部としてこの丘
(鷹ノ口おだ山)にも五芒星を設定していたが、どちらかというと
小さい五芒星で、五芒星内に神社もなくそれほど重視していなかった。

しかし、 鷹ノ口おだ山の五芒星の頭の付近もまた金星の宮だった
のである。

金星の宮の探し方では正確な地点は出ないが、須賀神社の西の
鷹ノ口おだ山における一番標高が高い地点辺りだろうか。
見直さねばならない。

ちなみに、布留神社址には、古墳時代の須恵器を焼いたという
「古門窯跡」が発見されている。

神崎と鷹ノ口おだ山にもまだ何か眠っているかもしれない。


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by furutsuki_oto | 2016-01-24 14:16 | 大地に刻まれた時計 | Comments(2)
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古月 乙彦 のブログ  神社とか星とか 古代のロマン.    Since 2016.1.22


by 古月 乙彦(ふるつき おとひこ)
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