古月のおと

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カテゴリ:摂津・山背・亀岡( 33 )

将軍塚


将軍塚

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 東山粟田口の将軍塚にのぼってきました。写真は、将軍塚青龍殿の大舞台から「糺の森」(ただすのもり) を望む構図です。賀茂川がまっすぐに将軍塚の方へ流れてきています。高野川と合流してのち南方向へ流れが変わり鴨川となります。賀茂川と高野川の合流地点のすぐ北が下鴨神社です。下鴨神社より上流の賀茂川は水気三合の辺に沿っていることが改めて確認できました。(「火気三合からみた平安京」参照)

 将軍塚は、和気清麻呂が山部王(桓武天皇)をこの山上にお誘いし、京都盆地(山背国葛野郡宇太村)を見下ろしながら都の場所にふさわしい旨進言したと伝わる場所です。山部王(桓武天皇)は和気清麻呂の勧めに従って延暦十三年(794年)平安建都に着手されました。そして、平安京遷都後に桓武天皇は「山背」の呼び名を「山城」に変えました。

※山部王の母は、和乙継(やまとのおとつぐ)と土師真妹(はじのまいも)の娘・高野新笠(たかののにいがさ)。父は天智天皇の孫の光仁天皇。和氏は百済武寧王の子孫を称する渡来系氏族で、もとの氏姓は和史(やまとのふひと)。高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、光仁天皇の即位後に賜姓されたもの。「高野」は地名で、現在の「高の原」あたり。神功陵古墳がある。高野近傍には土師氏の根拠地である菅原伏見、また秋篠がある。

 平安京造営時に平安京の大内裏を含む土地や多くの私財を献上した陰の立役者が秦氏です。「日本書紀」には、応神14年に功満王の息子で融通王とも呼ばれる弓月君が、百済から127県の民を率いて帰化し、秦氏の基となったことが明記されています。その後、雄略天皇の時代(5世紀)に秦部92部から成る18,670人、さらに6世紀には少なくとも7,053戸、数万人規模で移民してきています。秦氏が大陸より携えてきた文化は極めて高度なものであり、大規模な灌漑や土木工事、古墳の造営等にも着手し、特に山背国と呼ばれた京都盆地の開発と発展に大きく貢献しました。


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by furutsuki_oto | 2017-04-02 15:55 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

清凉寺のお松明


清凉寺のお松明

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昨日は、清涼寺(せいりょうじ)のお松明(おたいまつ)に行ってきました(今年は雨交じりだったので、写真は二年前に撮ったものです)。清凉寺のお松明は、京都の三大火祭りに数えられます。清凉寺は、通称 嵯峨釈迦堂といいます。もとは平安時代の貴族、源融(みなもとのとおる)の山荘だったところです。源融は、嵯峨天皇の皇子で、源氏物語の主人公 光源氏のモデルのひとりと言われる方です。 古代、この一帯は荒巣(あらす)と呼ばれていました。今、有栖川(ありすがわ)の名に一帯が「あらす」と呼ばれた名残りがあります。清凉寺境内の嵯峨薬師寺には、小野篁が閻魔大王に仕えて冥土と行き来していた際に帰りの出口だったという井戸もあります。

高さ7メートルのお松明が三基、これでもかとばかりに境内に置かれ、勢いよく燃え上がります。火勢が増すと、そこから更に7メートル程の炎が吹き上がります。壮観です。 お松明という行事には、ペルシャ時代のゾロアスター教の祭祀に類似した部分があります。ゾロアスター教では、大地の神の怒気が地上の人間の悪業を焼きつくす前兆がこの聖火です。この大地の神の名がサンスクリット語及びパーリ語でヤマ。仏教の閻魔、地蔵菩薩です。神仏習合のもとで地蔵菩薩の垂迹とされる神は、愛宕神や天児屋根命、大穴持命となります。

お松明の日には、嵯峨大念仏狂言もあります。いくつもの演目がありますが、まず最初に上演されるのが「土蜘蛛」です。源頼光や藤原保昌らの酒呑童子討伐・土蜘蛛退治の説話がもとになっています。同様の土蜘蛛退治の演目は、久世の蔵王堂の六斎念仏でも上演されます。同じ話を題材とする能の「大江山」では、頼光との酒宴の席での童子の語りの中に、「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とある。伝教大師というのは最澄のことです。

ところで脱線しますが、藤原保昌の奥さんが和泉式部です。和泉式部は佐賀県杵島の福泉寺の生まれで嬉野市あたりで育ったお方です。

それから福岡県の有数の古族、筑後の蒲池さんが源融のご子孫です。源融の末の源満末が肥前国神埼郡の鳥羽院領神埼庄の荘官として下り、次子(あるいは孫)の源久直が筑後国三潴郡の地頭として三潴郡蒲池に住み蒲池久直と名乗ったのが初めだそうです。


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by furutsuki_oto | 2017-03-16 20:26 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

宗像三女神と賀茂の関係


宗像三女神と賀茂の関係

宗像三女神は、筑紫と山背の両方で信仰されています。宗像三女神に関する伝承は、筑紫においてより厚く広く感じます。しかし大国主との関係においていつも混乱するので、少しずつ 系図をまとめていました。

神倭伊波礼毘古命の母の玉依姫命と、賀茂別雷神の母の玉依姫が同じ方なのかどうかまだ悩んでいたのもあります。別の方であるとしてみると、こんな系図になりました。

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ツッコミどころ満載なのは承知です。異説がいろいろあって唯一に決まらないところは都合の良い方を採りました。仮説として、饒速日=三島溝杭耳命 説を採っています。

とりあえず、大国主は複数います。大物主も複数います。いずれも地位と職責を表す名前との解釈です。
八重事代主と都味歯八重事代主も別の方と解釈しました。
古月の今段階のひとつの解釈です。

この図をみると、深草宝塔寺七面堂の七面大明神と賀茂御祖神社の関係も一目で納得できます。(古月のおと『深草 七面山』参照)

しかし、よく言われるように瀬織津比売命が天甕津日女だとすると、赤衾伊努意保須美比古佐和気能命 がなんか凄いことになってしまうのですが・・・構わず先に進むことにします。

系図を見ると、神倭伊波礼毘古命に東の地を薦めた塩土老翁、塩治比古命のことだとしたら、伊波礼毘古の甥ではないですか !? イメージ崩壊しました。


また、饒速日命の孫娘の婿が神武で、神武の岳父が事代主になります。国譲りから神武東遷まで、せいぜい30年~50年くらいだったのかも・・・なんてことになるんですが・・・

この婚姻関係から、意保須美比古は瀬戸内航路を開いて実質支配していたようにみえます。でもって、新北物部(阿刀氏の祖 饒田命)が神武東征に随行していますから、饒田命は爺っちゃんの里で育ったことになります。筑紫と摂津を結ぶ瀬戸内航路の両端のターミナル港を住吉一族でおさえていたわけです。


さて、『摂津の「高月」』で書いたことを引用しますが、物部氏(ここでは物部長者の家系のこと)の祖といわれる宇摩志麻遅命(宇摩志麻治とも書く)は、神武東征の時に功あり、三島溝咋が治めていた土地を与えられています。宇摩志麻治の旗印が月だったこと、天月弓杜(あめのつきゆみのやしろ)を祀ったことから一帯は高月(たかつき)と呼ばれるよになり、のちに字が変わり高槻と書くようになったと伝わっています。また、淀川の三島の津は筑紫津と呼ばれるようになりました(現存しています)。事代主と三島溝杭耳命(みしまのみぞくいみみのみこと)の娘・玉櫛媛の間にできた娘・媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)が、神武天皇の皇后になりました。

ここで、上の系図をみてみると、饒速日=三島溝杭耳命=意保須美比古が拓いた摂津の三島の筑紫津と瀬戸内航路の利権を巡って饒速日の子らの間に反目があったようにみえます。丹波出身の伊可古夜比売命(伊賀古夜日売とも)が生んだ子 がいたであろう三島が磯城(大和)の登美夜毘売の子に譲られた形になっていています。また、三島(高槻)の地はオリオンの三ツ星信仰から月信仰に塗り替わりました。 追い出された者たちは、筑紫の大国主(大穴持)と国替えになり、国を譲った事代主とその子らが山背・桑田(南丹)の開拓にまわったように見えます。まったくの私見ですが、これが真相だとしたら衝撃です。

高槻からみて淀川の対岸の枚方・交野一帯は、宇摩志麻治から六代目の伊香色雄が開拓しました(いつのまにか丹波系の「伊香」になっていますね)。磯城(今の天理市、橿原市、桜井市、宇陀市のそれぞれの一部に跨る辺り)の開拓もこの一派になります(蛇足ですが、旧 磯城郡のうちの桜井市に登美の地名があります。)。 

宇摩志麻治の異母妹に伊香色謎(いかがしこめ)命がおり、8代孝元天皇の妃となり、後に9代開化天皇の皇后となり、10代崇神天皇の母となります。伊香色謎の子孫は、伊香色謎―彦太忍信―屋主忍男武雄心―武内宿禰―葛城襲津彦―磐之姫(16代仁徳天皇の皇后)と続き、物部氏は天皇家との関係を密にして大躍進することになります。

ところで、宗像市赤間の八所宮と遠賀郡岡垣町(崗の湊)の高倉神社の伊賀さんは、神功皇后の三韓征伐の折に磯城の兎田(宇陀)からやってきた伊賀彦命の末と伝わっていますが、冶金や最新大型帆船技術にかかわる物部さんだったんでしょうね、きっと。 

伊賀彦命の母 弟橘媛は山代玖々麻毛理比売か(意味は、山代の栗隈の守の娘の意か。山代の栗隈は、和名抄にみえる山城国久世郡栗隈郷、現在の京都府宇治市大久保周辺であるようです)。 弟橘媛は穗積臣等之祖建忍山垂根の娘ともあります。穗は火に通じ、穗積は物部の正統とも。なんとなく見えてきた気がします。

つまりは結論として、鞍手・宗像の物部と、交野・磯城の物部は、どちらが先かではなく、航路の両ターミナルに同時発生したことになります。その両方の地に七夕伝説の神社があるのも定期航路の存在を伺わせます。

やがて穂積、安曇(阿積)、出雲積、津積(尾張氏)、鰐積、鴨積などに分かれ、さらに時代が下るとともに、まつろう内物部と まつろわぬ外物部が対立してしまったようです。 やはり母系をみていかないといけないんでしょうなぁ。

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by furutsuki_oto | 2017-02-10 00:05 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

中山寺 (宝塚市)

中山寺 (宝塚市)
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宝塚市中山寺(元は摂津国川辺郡中山寺村)にある真言宗中山寺派大本山で、地元では「中山さん」と親しみを込めて呼ばれているお寺です。ご本尊は十一面観世音菩薩。寺伝では聖徳太子が建立したとされる日本最初の観音霊場です。もとの川辺郡の名に残る 川辺 は、秦氏の中心氏族の一つですね。中山という山が背後にあり、山麓にある中山寺奥之院には厄神明王が祀られています。

8月9日の夜に西国三十三所の観音が星に乗って中山寺本堂に集まるとされ、星下り大会式が行われます。

また、中山寺の境内に 中山寺古墳(白鳥塚古墳)があります。14代仲哀天皇の后「大仲姫」の墳墓とされており、内部には石棺が残されています。

六甲山から比叡山まで 中山寺-鎌倉神社-松尾神社-松尾大社 を通るラインが引けます。
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これは平安京の 夏至日出-冬至日没線 にもなっています。

ライン上の住吉神社はどう関係するのかなと思ったのですが、住吉大社神代記によると「天手力男意気続々流住吉大神」とあり、住吉明神は 天手力男=天香香背男 のようです。

ラインが比叡山 山頂より少し北を指しています。そこにあるのは 神蔵山 (鎌倉山)のようです。

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by furutsuki_oto | 2017-01-14 14:11 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(1)

京都の水気三合の帝旺


京都の水気三合の帝旺
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「火気三合からみる平安京」を紹介したところ、まーりんさんから「水局(水気三合)の帝旺は何?」という宿題をいただきました。 私も平安京の水気三合で気になっていたことがありました。 北の大将軍は 秋葉神社だと思っていたのに朱雀大路からは結構ズレるのです。また、月輪寺からも明らかに外れでいたのでした。

「北を指す別の三角形があったりして。…」とまーりんさんが書いていらっしゃいましたが、私もそんな気がしていました。 それで、秋葉神社と月輪寺を必要条件として逆に水気三合の中心を求めてみましたところ、そこには花園大学がありました。 (花園大学は、妙心寺の学寮がもとになった臨済宗立の仏教系大学です。)

子午線は、秋葉神社と久我神社を通ります。これはもしかして久我國の残滓!?

そして水局の帝旺は、雲ヶ畑の「式内厳島神社」でした。 
そこは水源で、絶景の地でもあり、条件はバッチリです。

しかし、式内厳島神社と改称されたのは1868年、神仏分離令後のことのようで、『延喜式』には、明神大社 「天津石門別雅姫(あまついわとわけわかひめ)神社」とあります。本社裏山に、二つの石門岩があって、天津石門別雅姫が降臨したと伝えられています。 天津石門別雅姫は、記紀には無いお名前です。

奈良の天津石門別神社のご祭神が天手力男命であることから、天津石門別神は、手力男命=天香香背男のことでしょう。そうすると、天津石門別雅姫は天香香背男の娘姫ということになるのでしょうか。ここでも久我國との関係が感じられます。

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by furutsuki_oto | 2017-01-08 23:07 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(6)

火気三合からみる平安京

火気三合からみる平安京

2013年に曽我とも子さんという方が「陰陽五行思想における三合の考察 ―平安京にみる三合―」という論文を書かれています。桓武天皇は 火徳の天皇 であり、平安京には桓武天皇の守護を祈願したる「火気三合」による呪術が施されていると主張されております。(ここでは「火気三合」の説明は省きます。曽我さんの論文をご覧ください。)

初期平安京の太極殿を中心として、比叡山、愛宕山、横大路朱雀という3地点を結ぶと、平安京をすっぽりと囲む大三角形が形成されるというのです。さっそく衛星画像をもとに作図してみました。
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三角形の中心線は、朱雀大路(今の千本通り)にぴったり一致します。なるほど、横大路朱雀の小字は、意図的につけられたという感じです。「火気三合」による呪術の中心は、太極殿 になります。愛宕山の方位は、愛宕山山頂ではなく神護寺です。 ひとつ気づいたのですが、大原野外畑町の松尾神社が太極殿から見た冬至日没線上にあります。ここも行ってみないといけませんね。

あと、賀茂川と高野川の合流点が 糺ノ森 (ただすのもり) というのに対して、朱雀大路を中心として対称位置にある木嶋神社(蚕ノ社)は 元糺 (もとただす) と言われています。木島神社は、あの三柱鳥居 (みはしらとりい)のある社です。この対称性も狙ったものなんでしょうね、きっと。

大将軍八神社を中心軸とする大将軍のラインとは若干ズレていますが、「火気三合による呪術」としては 太極殿 が中心のようです。



京都市の市章と似ているという話もあるので、参考までに載せておきます。

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福知山市の市章の方がもっと似ているということなので、そちらも載せておきます。

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by furutsuki_oto | 2017-01-03 00:08 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(2)

新年のご挨拶

新年のご挨拶

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新年おめでとうございます。このブログを始めてから初めてのお正月です。 去年の初夢がキッカケで始めたブログでしたが、早いものでもうすぐ一年になります。

ひとつ謎が解けると、またすぐ次の謎が出てきます。それでも書くことによって、これまで混沌としていた断片が整理され、だいぶ理解は進みました。

昨年は、「六嶽周辺の五芒星と螺旋」の話に始まり、葛野・摂津・丹波との繋がりを見ていきました。
五芒星の螺旋が条里割りとも関係していたのは意外でした。 また、三光信仰は、単なる信仰ではなく歴(こよみ)をつくる具体的な知識・技術と結びついていたと知りました。 更に、ブログには書いてないのですが、我が家の家伝と繋がる伝承も拾えて感じ入りました。

今は、「加茂大神」が大いに気になっています。
今年はこの辺りからひも解いていく予定です。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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by furutsuki_oto | 2017-01-02 10:24 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

赤い龍

赤い龍

700年頃、大和朝廷は本格的に全国の鉱山・屯倉の経営にのりだす。
いったい何がそれを可能にしたのか見ていきたい。

唐の顕慶四年(659年)高宗の勅で李勣・蘇敬らにより世界初の薬局方である『新修本草』が上奏された。京都の仁和寺に天平三年(731年)の古写本残巻がある。
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金、銀、水銀、硫黄などの精錬法も記されている。大宝元年(701)の少し前に日本にも伝わったのではなかろうか。日本では大宝元年より金・銀・銅の鉱山開発が盛んに行われるようになる。

水銀について『新修本草』に次のような記載がある。「丹砂より出ずる者は、今は麁末なる朱砂を焼きて得らるるなり。色はすこしく白濁し、生なるもの(自然水銀)には及ばず。甚だ能く金銀を消化し、そのまま泥と化す。」とある。

泥になるというのは、現代の言葉でいうとアマルガムとなるということである。この一文は、現在の黄金アマルガム法といわれる湿式治金法に等しい。この方法により、砂金によらずとも屑鉱石から金や銅をとりだすことができるようになった。

丹砂は硫化水銀である。朱砂、辰砂ともよばれる。
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それを400~600 ℃ に熱すると水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じる。この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製する。水銀は、金や銅などを常温で溶かし込んで合金(アマルガム)をつくる。青銅などにこのアマルガムを塗り付けて熱すると金メッキができる。

『新修本草』に記載あるものは水銀アマルガムである。生なるもの、すなわち丹生は水銀、純水銀である。辰砂の鉱脈が赤龍か。
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698年(文武二年) 因幡および周防の二国は銅鉱を伊予国は白鉛鉱および朱砂を献ぜり[続日本紀]
701年(大宝元年) 鉄の採掘はこれを公許とせらる[続日本紀]
703年(大宝三年) 紀伊国阿提、飯高牢漏三郡より銀を貢せり[続日本紀]
709年(和銅二年) 銀銭を製して、銅銭と共に流通せしめられたり[続日本紀]
710年(和銅三年) 平城京遷都
713年(和銅六年) 伊勢多気郡丹生水銀山は水銀を出せり[続日本紀]
714年(天平十五年) 奈良東大寺の盧舎那仏金銅像の鋳造に着手せり[続日本紀]

このころ日本の冶金は地金を輸入する形から自前精錬に切り替わり、朝廷の号令をもって鉱山技術者を各地に入植させ鉱山開発に邁進するという産業革命があったようだ。奈良東大寺の虞舎那仏像(奈良の大仏)の建造の際には、熟銅73万7560斤(500トン弱)とともに、メッキ用に金1万436両(0.4トン)、水銀5万8620両(2.5トン)、さらに水銀気化用に木炭1万6656斛が調達されている。

古代にはほぼ丹生氏だけが錬丹術を伝えていたのが、秦氏は新しい水銀精錬・水銀鍍金の術をもって辰砂と水銀の利用の新たな主役となっていったようだ。

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by furutsuki_oto | 2016-12-17 16:46 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(3)

久我國 2 玖賀耳之御笠

久我國 2 玖賀耳之御笠

神武が東遷してきたとき、そこには久我國があった。やがて古事記の崇神記に見える鬼「陸耳御笠(玖賀耳之御笠)」の伝説にあるように、久我國は天孫族により圧迫されていく。

久我一族に敬意を表して残されている久我神社等の分布から、久我國は、京都盆地全域と 丹波路の入口にあたる乙訓郡(現 京都市南区)あたりから丹波国東南部にあたる桑田郡(現 亀岡市)にかけての地域にあったであろうとみられる。この国は豊葦原中国の国譲りを受け入れ船で隠れた事代主が三嶋溝杭、大山咋らと共に新天地として拓いた意富の一族による國ともみえる。

まずこの地に入った饒速日が先行して土着していた和邇氏(春日氏)と同和し、乙訓の開拓を進めた。そこにさらに大物主(事代主,賀茂氏)が合流し桑田へと開拓を進めた。神武東遷によるゴタゴタのあと、天孫族と物部氏は婚姻を通じて融和する。しかし、崇神天皇の頃には天皇家そのものが外戚である物部氏族に大きく左右されるようになってしまった。崇神天皇の母は母は伊香色謎命。崇神の斎名も五十瓊殖である。つづく垂仁天皇も五十狭茅。「五十」は「厳」「伊香」「甕」である。自身の出自に物部氏の一族の血が色濃く入っている。

崇神は、大物主の一族(意富の一族)への圧迫と宗教改革を断行した。崇神は、宮中に祀られていたの天照大神や大物主を宮中から外に出してしまった。物部を統括する官職としての大物主の制度もやめてしまったのではなかろうか。崇神は大物主の一族であり久我國の本来の支配者である玖我耳の討伐を彦坐王に命じた。久我國は、だんだんと丹後方面へと追いやられていった。

久我國が丹後へと追いやられていくなか、最後まで抵抗したのが玖賀耳御笠だ。土着の民の間では御笠は英雄だったのでなかろうか。和名類聚抄の加佐郡(現在の舞鶴市西舞鶴)のカサも御笠に由来するといわれる。玖賀耳の一族は日子坐王の大軍団をもってしても征服しきれなかった。それで後の世の繰り返しの討伐へと繋がっていく。それらは麻呂子親王の鬼退治伝説・七仏薬師信仰・源頼光らの大江山の鬼退治伝説などとして伝わっている。宗教改革の反動は疫病の大流行という形であらわれた。たくさんの民が亡くなった。その疫病の原因が「 大物主命(おおものぬし)という神の祟り」だったため、崇神は大物主の子孫、大田田根子を探し出して、葛木の三輪山に大物主の神を祀らせた。

これら一連の動きのなかで、銅鐸の「陸」の物部(外の物部)は表から消え、鏡の「海部」物部(内の物部)が残った。意富の一族(多氏)は臣下となった。久我の家名は、村上源氏の総本家として残る。 また御笠の名は、律令制下におかれた軍団名として残った。太宰府市(当時、福岡県水城村)で律令時代の軍団印である「御笠団印」(国宝)が出土している。

ところで、九州北部には、コガ、クガといった名字がとても多い。古賀、古閑、久家、空閑、久我、久賀、小賀。 御笠軍団と関係があるのか? 山背・丹波の久我(こが)と 北部九州の古賀(久我)、どちらが先なんだろう。

瀬織津姫が京都や丹波でたくさん祀られている訳まで書けなかった・・・まだまだ続きます。


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by furutsuki_oto | 2016-12-11 17:19 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

久我國(こがこく)

久我國(こがこく)

「深草 七面山」で、七面天女=玉依姫=多紀理毘売命 という話を書いた。
そこで知ったのは、 賀茂別雷命=阿遅須枳高日子 ということであった。 
その辺りのことをもう少し突っ込んでみたい。

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、神武天皇の東征で先導した八咫烏(やたがらす)と同一視される。賀茂建角身命と丹波国の伊可古夜比売(いかこやひめ)との間に玉依姫が生れている。 賀茂建角身命-玉依姫-賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと) と続いて、賀茂建角身命は賀茂氏の祖とされている。

賀茂別雷命の出生譚に出てくる父である丹塗り矢の正体は、『本朝月令』に引く『秦氏本系帳』では、「乙訓郡の社に坐せる火雷神なり」としている。また後半の部分では「戸上の矢は松尾大明神是なり」として松尾大社と関連付けている。

※式内社の乙訓坐火雷神社は、13西紀に乙訓郡の向日神社に合祀され、現・乙訓神向日神社下社となったという。また長岡京市の角宮神社が本来の乙訓坐火雷神社であるという説もある。

この乙訓の火雷神は、京都では 賀茂社・松尾社 と繋がりを持つ信仰の中で祭祀されてきた。長岡京遷都の際にも、賀茂上下社と松尾・乙訓の両神にたいして同時に神階昇叙があり、勅使が派遣されて修理がなされている。

先の『秦氏本系帳』の「戸上の矢は松尾大明神是なり」を認めると、天火明命=河内陶都耳命=三嶋溝杭耳=饒速日尊=八咫烏=賀茂建角身命 となり、更に 賀茂別雷命=神武天皇=阿遅須枳高日子=八重事代主=大山咋命 ということになる。衝撃である。


さて、賀茂氏が入った当時の山代國はせいぜい巨椋池周辺まで。やがて、大宮を経て東から西ルートで葛野へと広がっていく。賀茂氏が入る前の乙訓・葛野には、土師氏である葛野主殿県主部(かずぬのとのもりのあがたぬしべ)が西から東ルートで入り先住していた。この氏族と移動してきた鴨氏とは、始祖が同じ同族であったため融和が急速にすすんで鴨氏として同化してしまったようだ。

賀茂氏の移住の軌跡は今に伝えられている。山城国風土記逸文によると、賀茂氏移住の道筋は、次のとおり。
 
 1.山代國の岡田の賀茂、 
 2.葛野川(桂川)と賀茂河(鴨川)との会う所 
 3.久我の国の北の山基(やまもと)

このの順に遷座したという。
現在、それぞれの地には現在も賀茂氏の氏神が祀られている。

上に挙げた三カ所それぞれの比定地は次の通りである。

 1. 京都府木津川市加茂町。式内社の岡田鴨神社(現・岡田鴨神社の元宮)。
 2. 京都府京都市伏見区にある式内社の久何神社(現・久我神社)。久我の杜(森)。
 3. 京都府京都市北区紫竹の式内社の久我神社。大宮の森。

土師氏の住む葛野が桂川沿いである。賀茂氏-土師氏連合は、徐々に今の京北にまで勢力を拡大し山城國 愛宕(うたぎ)郡出雲郷を拓いた。しかし、京都盆地の大部分や奥丹波は、また別の「久我國(こがこく)」であった。やがて先住の久我國を賀茂-土師の連合が圧倒し、彼ら秦氏が改造した都市がのちに平安京となり発展していく。この背景を語るものとして、天津甕星(天香香背男)や陸耳御笠(くがみみのみかさ)の伝説が残されている。これらも別の機会に紹介したい。

ともかく東征してきた神武天皇は、久我國(こがこく)と対峙したのだった。

天火明命=河内陶都耳命=三嶋溝杭耳=饒速日尊=八咫烏=賀茂建角身命 という仮説が出てきた。

次回は、饒速日尊と久我國の関係からみていきたい。瀬織津姫が京都や丹波でたくさん祀られている訳もそこから見えてくると考えている。

(つづく)


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by furutsuki_oto | 2016-12-04 23:09 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)
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