先日、「大地に刻まれた時計」で、時計のない時代から意外にも
精密な天文観測が行われていたこと、黄道と赤道の区別がついて
いて、星を使って正確な時刻を把握していたことを述べた。
しかし、毎日真東から昇る星を時計の「針」とするには、天の
基準点と星図(もはくは基準点との時間差を確定する星表)が必要
である。
古来よりおとめ座のスピカは、春を代表する1等星として知られ
ている。秋分点に近いところにあるために、春分の太陽が沈む頃
に スピカが ほぼ真東の空に輝く。そのため、スピカには 麦の
刈り入れを知らせる星として「麦星」との名もある。
スピカが秋分点の近くにあると述べたが、より正確には、秋分点は
スピカの西方約24°に移動してしまっている。
しかし、1700年ほど前はほぼぴったり秋分点であった。
もうひとつの天の基準の採り方は、春分点である。
実際、現代の星図は、春分点を天の赤道の経度の基準点としている。
春分点とは、太陽の通り道である「黄道」と、恒星が真東から
上り真西へ沈むラインである天の「赤道」の交点にあたる。
昼と夜の長さが等しくなる春の彼岸の中日に太陽が居る方角が春分点
である。
前回も少し言及したが、春分点は黄道上を少しずつ西へとズレていく。
より具体的には、約2万5800年で黄道を一周する。
現在の春分点は「うお座」にあるが、2000年前には牡羊座にあった。
その痕跡は、西洋占星術に残されている。
日本で一般的なTropical式西洋占星術はは牡羊座を基準にとる。
今より4000年前(BC2000頃)には、春分点は牡牛座のアルデバランと
昴(すばる)の中間ほどにあった。、
アルデバランは、牡牛座の眼にあたる赤い1等星である。
昴(すばる)は、八乙女ぼしともいう(西洋ではプレアデス星団という)。
昴の明るい星は七つしか見当たらないが、八乙女のうちの一人は、
天から落ちたので、七人になったと伝えられている。
日の出前の昴(プレアデス)を種まきの準備の目印にしていたという
言い伝えは世界各地に残る。
BC2000年といえば、ヒッタイト人がアナトリアで鉄器を作っていた
時代である。
バビロニアの占星術に起源をもつというSidereal式の占星術では、
牡牛座をサインの基準にとる。
この頃の春分点は、おもしろいことに全天一明るいシリウスと、
オリオンの三つ星とを結ぶ線の延長上にある。きれいに一直線に
ならぶ。三つ星の中星がちょうど中間にくる。
そして三つ星の中星とシリウスの経度差がちょうど18°の関係に
ある。これは金星の五芒星の天を5の倍数に分ける考え方にとって
都合がよい。
一方、バビロニア人は、60進法を発明し、星が15°進むのを60分
として、一日を 24時間にわけた。
六嶽の周囲に五芒星のパターンを展開した人たちの流儀は、
バビロニア人の流儀とは異なっていたようだ。
金星の動きとシリウス-三つ星 に由来すると思われる18°分割を
徹底して採用している。
シリウス-三つ星-春分点の一直線の関係は、紀元頃までには通用
しなくなってくるが、
・牡羊座や魚座に明るい一等星がなかったことと、
・三つ星が天の赤道上にきたこと
・シリウスと三つ星の間の角が 15°や18°の目安となったこと
から、三つ星は海の民にその後も信仰されていったようだ。
応援ありがとう。ボチっとね.