古月のおと

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道中 松隈の 磐座


道中 松隈の 磐座

宗像大社社伝や鞍手の神話伝承では、三柱の女神は六嶽(むつがたけ)に降臨したといいます。日本書紀には「即以日神所生三女神者、使降居干葦原中国之宇佐嶋矣。今在海北道中。号曰道主貴」と記載があるのですが、鞍手では六嶽に降臨した三女神は、宇佐島、道中をへて400年くらいかけて赤間方面へと移動していき、今の宗像大社の場所に落ち着いたと伝える方もいます(あくまで聞いた話です)。宇佐島は六嶽の麓にかつてあった字で、いま宇佐寺があります。道中は、いま鞍手町に「道中交差点」というのがあるのですが、神崎の東から松隈・浪内あたりの細長い一帯のことも道中と地元の人々は呼びならわしています。鞍手町の剣岳の北の麓の中山の新橋から北が海中であったとき、ここが重要な交通路だったのだろうということです。

つづきがあります。私が中学生の頃(40年近く前)、鞍手で聞いた話では、三女神を祀る一派は分かれて到津荘のほうへもいったとも。小倉の香春口に近いところです。 さらに、私が高校生の頃、八幡にお住まいの宇佐一族の方から聞いた話では、到津より香春へ、そこから更に行橋、中津となんども遷宮してのち豊後の宇佐に落ち着いたとききました。中津の薦神社が宇佐神宮の元宮のひとつとも。こういう口伝はどこまで裏がとれているのでしょう。

ところで先ごろ、「松隈」は、宇佐宮の玄関口という話を知りました。宇佐託宣集によると、養老四年(七二〇)大隅・日向の隼人が反乱した際に八幡神自ら打ち取った隼人の首が埋められているということです。宇佐神宮の元宮の中津の薦神社の創建は承和年間(834-848年)だそうですが、そうすると、中津時代よりも更に前の宇佐社の脇にあった松隈の話なのかもしれません。そういえば、小学生の頃、鞍手の松隈の友人が武将の首が埋まっているという話をしていたのを聞いたことがありましたがその頃は何のことやらと聞き流していました。

しかし思い出したことがあります。 鞍手の道中の松隈・浪内に古月中学校がありましたが、その校庭には巨大な岩がありました。小学生がふざけて岩に乗ったらこっぴどく叱られてましたが、一度に五人ほど上っていたので、4~5メートルはあったろうと思います。最近、昔の航空写真にアクセスできるようになったので、確認できるかなと思って探してみたらありました。これです。

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赤丸で囲ったところに巨石がありました。当時、これは何かと教頭先生に尋ねましたら、学校を建てるまえからあった。三つほどあったが置いておけないので一部のみ残した。というような話でした。古月中学校は、丘のうえにありました。今思えば、古月中学校はちょっと変わった立地で、正門は急峻な石段(三十段以上四十段くらいはあったかと記憶)を上ったところにあり、大きな御影石の石柱門がありました。今ならわかります。この巨石は「磐座」だったのですね。今はもうありません。


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by furutsuki_oto | 2017-02-14 00:18 | 鞍手・宗像 | Comments(0)

梅咲天満宮(香月)


梅咲天満宮(香月)
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香月電停の目の前にあります。梅咲天満宮です。
所在地は、北九州市八幡西区楠北3丁目14

皿倉(日枝)-中山ライン上の社寺を順にみていっています。

いまでこそ 天満宮 になっていますが、この形、古墳ですよね。

香月の地名の由来は、小狭田彦が日本武尊を歓待した折に日本武尊が詠った次の歌と伝わっています。
「あな楽し、花の香り月清きところかな。今よりこの地を香月のむらと名づくべし」

香月は、もとは葛城と書いたとか。「香月氏」は、神功紀に出て来る「葛城襲津彦」の末裔だそうです。

梅咲天満宮は、まだ紹介していない別の五芒星のらせんと関わっていますが、それはまた後日。


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by furutsuki_oto | 2017-02-11 01:03 | 鞍手・宗像 | Comments(0)

中山(鞍手町)


中山(鞍手町)

物部氏が絡む産鉄地形に「中山」という地名がよく見られるようである。

ここは鞍手町の中山 (中山本村あたり)。熱田神社と八剣神社がある 剣岳 と 鷹ノ口おだ山 の間にある集落である。

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新北物部の里である 新北 から冬至の日没のレイライン上に並んでいる。剣岳山頂には、八剣神社の上宮がある。戦国時代に剣岳山頂に城が建てられることになって八剣神社の拝殿が遷されたようだ。 こうして拡大してみると、植木の須賀神社もライン上にあるようだ。 鷹ノ口おだ山の真東に、熊襲の 江上梟師(たける)が居たという金剛山が見える。

鞍手郡野面村八所大明神並びに同社境内にあった寿福寺の古文書によると、
 昔景行天皇の御躬親豊国の土賊を誅せんと欲し、周芳の沙磨の津を解纜して筑紫に幸し、到って香月君の祖小狭田彦の方に住み給う。而して宗形県主至る。一日天気夙に起き四方佳景の庄商の丘上に映照す状を眺望し、小狭田彦を召して曰く、嗚呼好哉彼野中の丘は。朝日の直刺し夕日の暮愛すべき丘なり。朕彼地に臨幸して親しく鎮魂を為さんと欲す、汝宜しく朕が為に其の設有るべし。是に於て小狭田彦寺を其の丘に建て竜尾扈従して鎮祭す。
(中略)
小狭田彦を以て鞍手の県主と為し且つ聞の田五十丁を賜う。
とある。

現在のおだ山は、木々が生い茂っていて見晴らしが悪いが、東の平地からの眺めで代用してみると・・こんな感じ。

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鷹ノ口おだ山は、真東より南30度(四時の方向)に福智山、真東より北30度(二時の方向)に帆柱山がみえる位置にある。(皿倉山は帆柱山とほぼ重なってみえている)

日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠ったという。小狭田彦の子孫が香月と名乗った。

香月の君 小狭田彦の娘 常磐津姫は日本武尊の妃となる。常磐津姫には男子が生まれた。その名を御剣王という。御剣王は成長すると父 日本武尊の東征に従って行った。

※ 剣岳山頂は、木が伐採されて、眺望が復活しているとの情報をいただきました。


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by furutsuki_oto | 2017-02-11 00:24 | 鞍手・宗像 | Comments(0)

宗像三女神と賀茂の関係


宗像三女神と賀茂の関係

宗像三女神は、筑紫と山背の両方で信仰されています。宗像三女神に関する伝承は、筑紫においてより厚く広く感じます。しかし大国主との関係においていつも混乱するので、少しずつ 系図をまとめていました。

神倭伊波礼毘古命の母の玉依姫命と、賀茂別雷神の母の玉依姫が同じ方なのかどうかまだ悩んでいたのもあります。別の方であるとしてみると、こんな系図になりました。

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ツッコミどころ満載なのは承知です。異説がいろいろあって唯一に決まらないところは都合の良い方を採りました。仮説として、饒速日=三島溝杭耳命 説を採っています。

とりあえず、大国主は複数います。大物主も複数います。いずれも地位と職責を表す名前との解釈です。
八重事代主と都味歯八重事代主も別の方と解釈しました。
古月の今段階のひとつの解釈です。

この図をみると、深草宝塔寺七面堂の七面大明神と賀茂御祖神社の関係も一目で納得できます。(古月のおと『深草 七面山』参照)

しかし、よく言われるように瀬織津比売命が天甕津日女だとすると、赤衾伊努意保須美比古佐和気能命 がなんか凄いことになってしまうのですが・・・構わず先に進むことにします。

系図を見ると、神倭伊波礼毘古命に東の地を薦めた塩土老翁、塩治比古命のことだとしたら、伊波礼毘古の甥ではないですか !? イメージ崩壊しました。


また、饒速日命の孫娘の婿が神武で、神武の岳父が事代主になります。国譲りから神武東遷まで、せいぜい30年~50年くらいだったのかも・・・なんてことになるんですが・・・

この婚姻関係から、意保須美比古は瀬戸内航路を開いて実質支配していたようにみえます。でもって、新北物部(阿刀氏の祖 饒田命)が神武東征に随行していますから、饒田命は爺っちゃんの里で育ったことになります。筑紫と摂津を結ぶ瀬戸内航路の両端のターミナル港を住吉一族でおさえていたわけです。


さて、『摂津の「高月」』で書いたことを引用しますが、物部氏(ここでは物部長者の家系のこと)の祖といわれる宇摩志麻遅命(宇摩志麻治とも書く)は、神武東征の時に功あり、三島溝咋が治めていた土地を与えられています。宇摩志麻治の旗印が月だったこと、天月弓杜(あめのつきゆみのやしろ)を祀ったことから一帯は高月(たかつき)と呼ばれるよになり、のちに字が変わり高槻と書くようになったと伝わっています。また、淀川の三島の津は筑紫津と呼ばれるようになりました(現存しています)。事代主と三島溝杭耳命(みしまのみぞくいみみのみこと)の娘・玉櫛媛の間にできた娘・媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)が、神武天皇の皇后になりました。

ここで、上の系図をみてみると、饒速日=三島溝杭耳命=意保須美比古が拓いた摂津の三島の筑紫津と瀬戸内航路の利権を巡って饒速日の子らの間に反目があったようにみえます。丹波出身の伊可古夜比売命(伊賀古夜日売とも)が生んだ子 がいたであろう三島が磯城(大和)の登美夜毘売の子に譲られた形になっていています。また、三島(高槻)の地はオリオンの三ツ星信仰から月信仰に塗り替わりました。 追い出された者たちは、筑紫の大国主(大穴持)と国替えになり、国を譲った事代主とその子らが山背・桑田(南丹)の開拓にまわったように見えます。まったくの私見ですが、これが真相だとしたら衝撃です。

高槻からみて淀川の対岸の枚方・交野一帯は、宇摩志麻治から六代目の伊香色雄が開拓しました(いつのまにか丹波系の「伊香」になっていますね)。磯城(今の天理市、橿原市、桜井市、宇陀市のそれぞれの一部に跨る辺り)の開拓もこの一派になります(蛇足ですが、旧 磯城郡のうちの桜井市に登美の地名があります。)。 

宇摩志麻治の異母妹に伊香色謎(いかがしこめ)命がおり、8代孝元天皇の妃となり、後に9代開化天皇の皇后となり、10代崇神天皇の母となります。伊香色謎の子孫は、伊香色謎―彦太忍信―屋主忍男武雄心―武内宿禰―葛城襲津彦―磐之姫(16代仁徳天皇の皇后)と続き、物部氏は天皇家との関係を密にして大躍進することになります。

ところで、宗像市赤間の八所宮と遠賀郡岡垣町(崗の湊)の高倉神社の伊賀さんは、神功皇后の三韓征伐の折に磯城の兎田(宇陀)からやってきた伊賀彦命の末と伝わっていますが、冶金や最新大型帆船技術にかかわる物部さんだったんでしょうね、きっと。 

伊賀彦命の母 弟橘媛は山代玖々麻毛理比売か(意味は、山代の栗隈の守の娘の意か。山代の栗隈は、和名抄にみえる山城国久世郡栗隈郷、現在の京都府宇治市大久保周辺であるようです)。 弟橘媛は穗積臣等之祖建忍山垂根の娘ともあります。穗は火に通じ、穗積は物部の正統とも。なんとなく見えてきた気がします。

つまりは結論として、鞍手・宗像の物部と、交野・磯城の物部は、どちらが先かではなく、航路の両ターミナルに同時発生したことになります。その両方の地に七夕伝説の神社があるのも定期航路の存在を伺わせます。

やがて穂積、安曇(阿積)、出雲積、津積(尾張氏)、鰐積、鴨積などに分かれ、さらに時代が下るとともに、まつろう内物部と まつろわぬ外物部が対立してしまったようです。 やはり母系をみていかないといけないんでしょうなぁ。

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by furutsuki_oto | 2017-02-10 00:05 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

竹原古墳


竹原古墳
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福岡県宮若市竹原(旧 鞍手郡宮田町竹原)にある竹原古墳です。諏訪神社境内にあります。ここの装飾古墳はあまりにも有名ですね。6世紀後半ごろのものと考えられています。

ひもろぎ逍遥のるなさんも竹原古墳の訪問記を書いておられます。るなさんが指摘しておられるように、赤いふち模様の火を噴くドラゴンは竜座のようです。

ブーツの武人は、馬を牽いて船から下ろしているように見えます。
船首の飾りは「幡」でしょうか。


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by furutsuki_oto | 2017-01-31 18:20 | 鞍手・宗像 | Comments(0)

皿倉(日枝)-中山 ライン


皿倉(日枝)-中山 ライン

中山寺 (宝塚市)」の話題の折に、比叡山(日枝山)-中山寺-六甲山 のラインを紹介しました。夏至日出-冬至日没線であり、天香香背男=天手力男意気続々流住吉大神や松尾大神に関連するラインでした。

はて、日枝と中山、遠賀川水系にもあったような・・松尾大神も筑紫胸形坐中部大神だし・・というわけで、遠賀川水系で対応するラインを探してみました。 もうひとつの 日枝-中山ラインです。

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北九州市八幡東区に「山王(さんのう)」という地名があります。山王信仰が根付いている土地です。皿倉山を日枝山として崇めます。山王の南に石鎚神社があります。山王の北には、大宮、枝光の地名があります(枝光八幡宮のご祭神は武御名方命)。皿倉山は、古来、山伏が修行の場としてきた山で、現在でも皿倉山から英彦山までの山道を3日間掛けて歩く修行などが行われています。皿倉の名称は、神功皇后以降との伝承です。

その皿倉山から鞍手の中山(剣岳, 御山)まで 夏至日出-冬至日没線 が引けます。ライン上に、山神宮、梅咲天満宮、鷹ノ口おだ山、熱田神社などがあります。延長していくと竹原古墳に至ります。筑紫の加茂も近いですね。 それから中間市辺りは、古代は胸形です。 何を表しているのか詳細は不明ですが、なんとなく意味深げなラインです。

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by furutsuki_oto | 2017-01-29 12:32 | 鞍手・宗像 | Comments(6)

街に溶ける古墳 4

街に溶ける古墳 4
古門松ケ元古墳


街に溶けたわけではないですが・・・、1998年に圃場化工事でなくなってしまいました。 銀環(耳飾り)、碧玉製管玉、ガラス製玉、須恵器などが出土したようです。出土品は 鞍手町歴史民俗博物館 に展示してあります。

福岡県鞍手郡鞍手町古門西山松ヶ元



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by furutsuki_oto | 2016-03-31 21:14 | 古墳 | Comments(0)

街に溶ける古墳 3  八尋 幸ノ浦

街に溶ける古墳 3
八尋 幸ノ浦




ここは、福岡県鞍手郡鞍手町八尋。

上方(北)に見える丸い丘は「旭1号墳」。
その下に、削られてしまった前方後円墳でしょうかというような独特の地形が見えます。

この辺りに「幸ノ浦1号墳」と「幸ノ浦2号墳」があったそう。

鞍手町には、大塚古墳や銀冠塚古墳のように、大首長の墳墓と思われる大古墳群がいくつもある。ここもそうだったのだろうか。


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by furutsuki_oto | 2016-02-16 23:55 | 古墳 | Comments(0)

六嶽周辺の五芒星 6  宮田倉久

六嶽周辺の五芒星 6
宮田倉久

六嶽周辺の五芒星の中でも大きなものを順に紹介していっている。
今回は、宮田(現 宮若市の一部)の倉久周辺の五芒星である。


ここは、ほぼほぼゴルフ場と工場になってしまった。
五芒星に直接のってくる神社は少ないが、特異な角度の道路や
変則的な交差点の様子、また周囲の神社配置との関係から
五芒星が浮かび上がる。

笠松神社は、工場建設の頃に遷座したように聞いている。
町道上倉線(上有木~倉久)の改良工事にともない移転した。
(間違っていたらご指摘ください)

もとの道は、神功道である。神功皇后が笠をかけたという伝承がある。
また、貝原益軒著の「鞍手郡磯光神社縁起」によれば、
饒速日尊が垂仁天皇16年に宮田町の南に聳える笠置山頂(425m)に
降臨したという。

倉久集落の裏手の山が気になる。


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by furutsuki_oto | 2016-02-04 01:41 | Comments(0)

ドラゴンカーブ 2  鷹ノ口おだ山

ドラゴンカーブ 2

鷹ノ口おだ山


 「ひもろぎ逍遥 脇巫女39 ターゲット」 の方で、「鷹ノ口おだ山」の
「禁足地」探しが急展開を見せている。「御剣王の聖地」とは別のようである。

そこで、「鷹ノ口おだ山」の周辺を見直したところ、最初に見つけたドラゴン
カーブとは異なる時代の異なる形式 の ドラゴンカーブ が見つかった。
これはすごい!

予定を変更して先にこの話を書くことにする。

次の図を見てほしい。

a0351692_02053275.png

きれいなフィボナッチ数列による五芒星のタイリングがドラゴンカーブを
成している。


なんと、このドラゴンカーブは「鷹ノ口おだ山」と「剣岳」の近隣の神社の
配置を説明しつくす。

ただし、六嶽神社、十六神社、貴船神社は排除される。 亀丘にも届かない。

なんだろうこれは。 「六」を排除しているのだろうか。「八」はしっかり
組み込まれている。 これだけ今ある神社にマッチするということは、
きっと数あるパターンの中でも最も新しい部類なんだろう。



「六」を排斥して「八」が支配した時代があった。
そういうことなんだろうか。今もそうなんだろうか。


代行寺の前の池に収束しているが、そこには「古くは高楼があった」という。
いかんせん、聞いたのが子供の頃なので正確な地点が不明である。時代背景
もわからない。どなたか知っていたら教えてほしい。


今回、これまた驚きの結果となった。古代の意思は地に刻まれている。
少しは「鷹ノ口おだ山」の謎解きの役に立つかな?



と、ここまで書いたところで、1975年の航空写真を入手した。


なにか見えるぞ。

a0351692_14434932.png
先述のドラゴンカーブと重ねてみたものが右の絵である。
おぉっすごい。 完全に一致。 感動ものだ。

いちばん下の五芒星は、「ドラゴンカーブ 1」で示した断層ずれ前のドラゴン
カーブの一部である。つまり古いものである。
作ったのは「三」の人達か、「六」の人達か。そして、「御剣王の聖地」に関わっている。


上2つの五芒星が(おそらく「八」の人達によって) 後から作られた(もしくは塗り替えた)ものだろう。

この写真一枚で、

・鷹ノ口おだ山が「六」の人達の頃から聖なる場所であったこと、
・後の時代に(たぶん「八」の人達によって)塗り替えられたこと、
・「五芒星」は実在すること、

いっぺんに証明できてしまった。


新しいドラゴンカーブを見つけた直後に この写真が届けられたのは、
なんというシンクロニシティ。

近頃 不思議なことが続いています。 (^^)V  鳥肌ものです。

写真に ○を付けた場所は、全て神社だったのだろう。今はもう祀られて
いない可能性が高い。

で、禁足地はどこ? 写真で簡単に判るってことはないだろう。だって
隠したいんだから。

写真に描き入れた三つの五芒星の一番うえの分の右足の付け根(中点)
部分、ここは印をつけてないけれど、遺跡があったりするかも。


すごいな 鞍手。



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by furutsuki_oto | 2016-01-26 18:58 | ドラゴンカーブ | Comments(4)
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古月 乙彦 のブログ  神社とか星とか 古代のロマン.    Since 2016.1.22


by 古月 乙彦(ふるつき おとひこ)
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