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新年のご挨拶

新年のご挨拶

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新年おめでとうございます。このブログを始めてから初めてのお正月です。 去年の初夢がキッカケで始めたブログでしたが、早いものでもうすぐ一年になります。

ひとつ謎が解けると、またすぐ次の謎が出てきます。それでも書くことによって、これまで混沌としていた断片が整理され、だいぶ理解は進みました。

昨年は、「六嶽周辺の五芒星と螺旋」の話に始まり、葛野・摂津・丹波との繋がりを見ていきました。
五芒星の螺旋が条里割りとも関係していたのは意外でした。 また、三光信仰は、単なる信仰ではなく歴(こよみ)をつくる具体的な知識・技術と結びついていたと知りました。 更に、ブログには書いてないのですが、我が家の家伝と繋がる伝承も拾えて感じ入りました。

今は、「加茂大神」が大いに気になっています。
今年はこの辺りからひも解いていく予定です。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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# by furutsuki_oto | 2017-01-02 10:24 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

赤い龍

赤い龍

700年頃、大和朝廷は本格的に全国の鉱山・屯倉の経営にのりだす。
いったい何がそれを可能にしたのか見ていきたい。

唐の顕慶四年(659年)高宗の勅で李勣・蘇敬らにより世界初の薬局方である『新修本草』が上奏された。京都の仁和寺に天平三年(731年)の古写本残巻がある。
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金、銀、水銀、硫黄などの精錬法も記されている。大宝元年(701)の少し前に日本にも伝わったのではなかろうか。日本では大宝元年より金・銀・銅の鉱山開発が盛んに行われるようになる。

水銀について『新修本草』に次のような記載がある。「丹砂より出ずる者は、今は麁末なる朱砂を焼きて得らるるなり。色はすこしく白濁し、生なるもの(自然水銀)には及ばず。甚だ能く金銀を消化し、そのまま泥と化す。」とある。

泥になるというのは、現代の言葉でいうとアマルガムとなるということである。この一文は、現在の黄金アマルガム法といわれる湿式治金法に等しい。この方法により、砂金によらずとも屑鉱石から金や銅をとりだすことができるようになった。

丹砂は硫化水銀である。朱砂、辰砂ともよばれる。
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それを400~600 ℃ に熱すると水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じる。この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製する。水銀は、金や銅などを常温で溶かし込んで合金(アマルガム)をつくる。青銅などにこのアマルガムを塗り付けて熱すると金メッキができる。

『新修本草』に記載あるものは水銀アマルガムである。生なるもの、すなわち丹生は水銀、純水銀である。辰砂の鉱脈が赤龍か。
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698年(文武二年) 因幡および周防の二国は銅鉱を伊予国は白鉛鉱および朱砂を献ぜり[続日本紀]
701年(大宝元年) 鉄の採掘はこれを公許とせらる[続日本紀]
703年(大宝三年) 紀伊国阿提、飯高牢漏三郡より銀を貢せり[続日本紀]
709年(和銅二年) 銀銭を製して、銅銭と共に流通せしめられたり[続日本紀]
710年(和銅三年) 平城京遷都
713年(和銅六年) 伊勢多気郡丹生水銀山は水銀を出せり[続日本紀]
714年(天平十五年) 奈良東大寺の盧舎那仏金銅像の鋳造に着手せり[続日本紀]

このころ日本の冶金は地金を輸入する形から自前精錬に切り替わり、朝廷の号令をもって鉱山技術者を各地に入植させ鉱山開発に邁進するという産業革命があったようだ。奈良東大寺の虞舎那仏像(奈良の大仏)の建造の際には、熟銅73万7560斤(500トン弱)とともに、メッキ用に金1万436両(0.4トン)、水銀5万8620両(2.5トン)、さらに水銀気化用に木炭1万6656斛が調達されている。

古代にはほぼ丹生氏だけが錬丹術を伝えていたのが、秦氏は新しい水銀精錬・水銀鍍金の術をもって辰砂と水銀の利用の新たな主役となっていったようだ。

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# by furutsuki_oto | 2016-12-17 16:46 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(3)

片野物部 4 津山 中山神社

片野物部 4 津山 中山神社

岡山県津山市一宮に、美作國(みまさかのくに)一の宮として崇敬を集める中山神社(なかやまじんじゃ)があります。主祭神は、「鏡作神」。

ただし、中山神社がまとめた大正時代の「中山神社資料」だと、主神は「金山彦命(かなやまひこ)」となっています。更に古く『延喜式頭注』では大己貴命(おおむなち)が祭神となっています。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』では、中山神社の神は猿神とされています。そのためか、現在は、中山神社の摂社に 国司神社(大己貴神)、御先神社(稲荷神)、猿神社(猿多彦神) が祀られています。

社伝にこんな話があります。「当地には古く大己貴命が鎮座していたが、中山神に宮所を譲ったところ、以前から大己貴命を奉じていた伽多野部長者乙丸が、それを不満に思った。これに怒った中山神の眷属・贄賄梧狼神(梧は実際には獣偏)が乙丸に祟ったので、乙丸は毎年二頭の鹿を供えることにした。贄賄梧狼神はこれを許し、牛馬市を開かせた。その後、乙丸は弓削庄に退いた。」

この伽多野部長者乙丸の屋敷地のあった場所が、後に美作国一宮である中山神社となったというのです。話の筋から中山神社創建の707年頃のことのようです。(『久米郡誌』によれば、和銅六年(713)のことだそうです。)

707年といえば元明天皇即位の年でしたか。胸形君徳善の孫の高市皇子が太政大臣になったのが持統4年(690年)ですから、その少しあと。伽多野部長者乙丸は、『中山神社縁由』や『作陽誌』では、肩野物部乙麿として出てきます。

津山市から岡山県北部(旧・建部町)の製鉄遺跡が数多くみられます。いずれも岡山県の東部を流れる吉井川水系にあります。伽多野部長者は、その名前が示すとおり河内國肩野郡にいた片野物部と同族のようです。出雲から移ってきたものか、河内國肩野からかは定かではありません。中山神社周辺では大蔵池南製鉄遺跡のすぐそばに、肩野物部氏のものと伝える長者屋敷地や、そこから西にある善福寺の成立として、肩野物部氏の妻の建立による尼寺であると伝えています。ここが本来の「吉備の中山」とする説もあります。

まーりんさんが教えてくれた儺の星の国拾遺の一文、「鍛冶場を交野(かたの)という。”かたの”とは砂礫が白く連なる河原であり、昔は”あまのかわ”であった。砂鉄の火花がさけ散るところである。」という意味を改めて見直しました。

それにしても「物部」氏と「中山」地名はセットでよく出てきます。「ナカヤマ地形」とでもいうべきものがあって、産鉄地帯となっている山と山の中間地帯をいうようです。

ところで、中山神社に稲穂を奉納する役目の半分は有木氏が務めたのだそうです。「有木」これも見た覚えが・・鞍手郡に有木郷というのがありました。現 宮若市に上有木・中有木・下有木という地名が残っています。南に望む甘南備山が饒速日尊が筑紫に降臨したという笠置山です。

中山神社がある一の宮地区の水源「黒沢山」の山頂には和銅七年創建と伝わる万福寺があります。創建以来、虚空蔵菩薩を本尊としているそうです。

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# by furutsuki_oto | 2016-12-12 23:00 | Comments(2)

笠岡 七面神社

笠岡 七面神社

いったい何に呼ばれたものか、不思議なことが続いている。
椿の花弁様の渦巻模様の3つめの事例を見つけてしまいました。

場所は、笠岡市神島(こうのしま) 七面神社です。
椿の花弁様の渦巻模様が確認できます。
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瓦紋はやはりこれです。
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扁額の周りにも花弁様の渦巻。
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七面宮それ自体は名前からして鎌倉時代以降の祭祀のようなのですが、周りを見渡してビックリです。

ここは、神武東遷の折、八年間滞在し軍備を整えたという伝説の場所。より詳細にいうと、神日本磐余彦尊が滞在した所は隣の高島の王泊(おうどまり)と伝わっているのですが、神島(こうのしま)の外浦には吉備國の行館(かりみや)であったという「神島神社」がありました。

神島神社のご祭神は神日本磐余彦命(神武天皇)と興世姫命。そこは皇后興世姫尊(おきよひめ)が住まわれた宮であり、神日本磐余彦尊の行宮(あんぐう)「高嶋宮」だったそうです。 興世姫尊は記紀には記載がないお方です。寛平年間(889-898)に菅原道真公が神島神社の調査に来て、神島神社は延喜式内社に列せられました。

そして、もうひとつビックリ。高島の島民の家から耳形柄頭長剣という青銅剣が発見されて、高島おきよ館に展示されている。イランのタリシュ地方でみられる3000 年前の古代ペルシャの剣と同様のもののようだという。件の耳形柄頭長剣は高島まで秦氏の渡来物として運ばれたものであろうと推定されている。

神倭伊波礼毘古命にまつわる謎を抱えていたのだが、なんかヒントをいただいたようだ。


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# by furutsuki_oto | 2016-12-11 23:16 | Comments(1)

久我國 2 玖賀耳之御笠

久我國 2 玖賀耳之御笠

神武が東遷してきたとき、そこには久我國があった。やがて古事記の崇神記に見える鬼「陸耳御笠(玖賀耳之御笠)」の伝説にあるように、久我國は天孫族により圧迫されていく。

久我一族に敬意を表して残されている久我神社等の分布から、久我國は、京都盆地全域と 丹波路の入口にあたる乙訓郡(現 京都市南区)あたりから丹波国東南部にあたる桑田郡(現 亀岡市)にかけての地域にあったであろうとみられる。この国は豊葦原中国の国譲りを受け入れ船で隠れた事代主が三嶋溝杭、大山咋らと共に新天地として拓いた意富の一族による國ともみえる。

まずこの地に入った饒速日が先行して土着していた和邇氏(春日氏)と同和し、乙訓の開拓を進めた。そこにさらに大物主(事代主,賀茂氏)が合流し桑田へと開拓を進めた。神武東遷によるゴタゴタのあと、天孫族と物部氏は婚姻を通じて融和する。しかし、崇神天皇の頃には天皇家そのものが外戚である物部氏族に大きく左右されるようになってしまった。崇神天皇の母は母は伊香色謎命。崇神の斎名も五十瓊殖である。つづく垂仁天皇も五十狭茅。「五十」は「厳」「伊香」「甕」である。自身の出自に物部氏の一族の血が色濃く入っている。

崇神は、大物主の一族(意富の一族)への圧迫と宗教改革を断行した。崇神は、宮中に祀られていたの天照大神や大物主を宮中から外に出してしまった。物部を統括する官職としての大物主の制度もやめてしまったのではなかろうか。崇神は大物主の一族であり久我國の本来の支配者である玖我耳の討伐を彦坐王に命じた。久我國は、だんだんと丹後方面へと追いやられていった。

久我國が丹後へと追いやられていくなか、最後まで抵抗したのが玖賀耳御笠だ。土着の民の間では御笠は英雄だったのでなかろうか。和名類聚抄の加佐郡(現在の舞鶴市西舞鶴)のカサも御笠に由来するといわれる。玖賀耳の一族は日子坐王の大軍団をもってしても征服しきれなかった。それで後の世の繰り返しの討伐へと繋がっていく。それらは麻呂子親王の鬼退治伝説・七仏薬師信仰・源頼光らの大江山の鬼退治伝説などとして伝わっている。宗教改革の反動は疫病の大流行という形であらわれた。たくさんの民が亡くなった。その疫病の原因が「 大物主命(おおものぬし)という神の祟り」だったため、崇神は大物主の子孫、大田田根子を探し出して、葛木の三輪山に大物主の神を祀らせた。

これら一連の動きのなかで、銅鐸の「陸」の物部(外の物部)は表から消え、鏡の「海部」物部(内の物部)が残った。意富の一族(多氏)は臣下となった。久我の家名は、村上源氏の総本家として残る。 また御笠の名は、律令制下におかれた軍団名として残った。太宰府市(当時、福岡県水城村)で律令時代の軍団印である「御笠団印」(国宝)が出土している。

ところで、九州北部には、コガ、クガといった名字がとても多い。古賀、古閑、久家、空閑、久我、久賀、小賀。 御笠軍団と関係があるのか? 山背・丹波の久我(こが)と 北部九州の古賀(久我)、どちらが先なんだろう。

瀬織津姫が京都や丹波でたくさん祀られている訳まで書けなかった・・・まだまだ続きます。


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# by furutsuki_oto | 2016-12-11 17:19 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)
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古月 乙彦 のブログ  神社とか星とか 古代のロマン.    Since 2016.1.22


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