「ひもろぎ逍遥」で紹介された鞍手の「星読みの民」、
ここでは単に「星読」と呼ぶことにする。
「星読」は、「地に刻まれた時計盤」を使って、その日に真東
から昇る星や 東方最大離角にある金星から正確な時刻を読み
取る技をもっていた。
「星読」は、五芒星をタイリングしたドラゴンカーブを使って
精密観測を行っていた。
今日は、そこから推定される「星読の暦」について考えてみよう。
しかし、その前に太白の暦をざっと理解しておく必要がある。
太白の動きを知る人たちは、太白が天に留まる5つのポイントが
あって、その星座で季節が知れること、これを地上に写した
五芒星を描くことで星から時刻が知れることを知っていた。
彼らは地上に刻んだ五芒星を使って、見えている天(黄道)を
天頂基準の10の区分に分けた。
天には、見えている天(つまり「陽」)と見えていない天
(つまり「陰」)がある。従って、一日は、五芒星を使って
20の刻(とき)に分けられた。
1刻を表す20分画のひと目盛りは、360°÷ 20 = 18°である。
この1刻で星は18°動く。シリウスと三ツ星の経度に相当する。
太白が宿る5つの宮は、五惑星に結び付けて色が充てられた。
ここで、五惑星は すなわち、土星、木星、火星、金星、水星
である。(ここでは、地上から見える最大角速度が遅い順に
ならべた。五行の並びとは違うので注意)
これに対応する五色は、蒼(青)、黄、朱(赤)、白、玄(黒)である。
まんま星の色である(水星が黒なのは、日面通過のとき最もその
存在を示すから)。
太白の暦は、一日を 20の刻に分け、ひとつの五芒星でその刻を
よみとった。20を数詞で表すのも象形で表すのも大変なので、
五色と四獣だったかもしれない。十刻と陰陽だったのかもしれない。
いずれにせよ、一日を20の刻に分けた。
太白の暦の利点は、空がせまい谷でも利用できることである。
ただ、黄道を見ていた点において、大雑把な時間把握だったと
思われる。
さてようやく「星読の暦」の説明に入る準備ができた。
まず、「星読」は黄道と赤道の区別がついており、正確な時間を
測るためには、赤道上の星を使うべきであることを知っていた。
また、五芒星をタイリングしたドラゴンカーブで、精密観測を
行っていた。
鷹ノ口おだ山のドラゴンカーブは、4.5°刻みの目盛りを刻んで
いた。これは、赤道を80分割する目盛りである。
80分割には陰陽と八方位そして五色の考え方を使ったと思われる。
4.5°の目盛りからは、45°ずつの方位も出てくるのである。
彼らは恐らく見えている南天を東の空と西の空に分けて考え、
それを五芒星に内在する角度から出てくる五色で更に5分割して、
一日を20の刻に分けた。20の刻は太白暦の継承でもある。
鷹ノ口おだ山のドラゴンカーブは、これを更に四分割する4.5目盛り
を与えてくれる。そして読み取りに際し、さらに6分割することで
時間分解能3分の時計を実現していた。
「星読」は、赤道上を動く星を精密観測していたのだ。
彼らはまた、シリウスや8年で5回の東方最大離角をとる金星を
精密観測し、一年が 365.25日 であることを知っていた。
知っていたうえで、周辺の首長たちの召集には太陰暦を用いた。
すなわち、月が無い朔が「ついたち」、三日月が「三日」、
十五夜が十五日という月の形を見れば何日かわかるという方法だ。
星読みは、朔日に首長たちを召集し、うるう月や種まきの旬を
告知した。
鷹ノ口おだ山から見える帆柱山・金剛山・福智山との角度から
判ることだが、彼らは、19年毎のスーパームーンを観測していた。
何のためか。一朔望月は 29.530589日なので、月の満ち欠けだけ
で日にちを決めるやり方だけを押し通すと季節とのズレが激しく
なる。そこで19年に7回の閏月を入れる太陰太陽暦に改良した。
19年に7回閏月入れると、19×12+7で235朔望月である。
これなら19年が6939.688日となる。19太陽年の6936.280日と
極めて近い。
このやり方は、ギリシャでは紀元前433年には知られていた。
「星読」は、現代にも通じる正確な時刻を知る術と太白の動き
から精密化した太陽太陰暦をもっていた。
以上が、星読の暦について、彼らの観測装置から推定したこと
である。
次回は、月の位置から時刻を読み取る方法を編み出した
「月守の暦」を予定しています。