古月のおと

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円応寺 (北九州市)


円応寺 (北九州市)

件の皿倉(日枝)-中山ライン上に円応寺(えんおうじ)がある。所在地は 八幡西区上上津役5-13-5  「上上津役」は、「かみこうじゃく」と読む。

上津役(こうじゃく)は、奈良時代に律令で定められた駅(うまや)制度の駅で、中央と地方への命令、地方からの報告など連絡のために置かれた。平安時代、ここは役之郷と呼ばれ、役之郷がのちに上津役郷となりました。上津役は、古代から要所だったようです。

上上津役の円応寺近くに金山があり、そこからの湧水を水源とする金山川(きんざんがわ)が流れています。黒田長政も入国後に開発を継承しました。駅であるまえに鉱山だったのですね。また、上津役のすぐ近くの永犬丸西町の住宅地の一角で、タタラ吹き製鉄炉を持つ古代の製鉄跡、また古墳時代に使われた須恵器の窯跡の丸ヶ谷遺跡が発見されています。鉱山拠点としてはとても古いものであると想像できます。

実は、ラインを延長していくと、もうひとつの円応寺があります。小倉圓應寺とも呼ばれます。所在地は、 小倉北区清水4-5-2

ここは、香月氏と縁が深いようで、香月世譜を記した香月牛山(1656~1740)の墓があります。豊前中津藩に医官として仕えた人です。香月牛山の墓碑は、前述(山上宮周辺)の吉祥寺(北九州市八幡西区)境内にもあります。皿倉(日枝)-中山ライン自体が、鉱山と香月氏とに深くかかわるようです。

蛇足ですが、小倉圓應寺から1.5km東に黄金の地名が、2km東に宇佐町と中津口の地名があります。圓應寺は黒田家が拠点を遷した大分県中津市、福岡市中央区にもそれぞれあります。

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by furutsuki_oto | 2017-02-26 17:42 | Comments(0)

山神宮周辺(香月西)


山神宮周辺(香月西)

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皿倉-中山ライン上の神社・遺跡をみていっています。ここは八幡西区香月西の山上宮周辺です。斉明天皇が行宮をおいた岩瀬宮址の南東2.5km程のところです。

「山神宮」のご祭神は大山積神(おおやまづみのかみ)、鳥居には昭和9年11月3日建立とあります。今は廃墟のように荒れています。貝島太助が明治29年に開いた旧 大辻炭砿に関連して祀られたもののようです。なんだ新しいのかと思わないでください。ここには江戸時代すでに香月炭鉱がありました(香月や垣生の石炭は、江戸時代初期には知られていたようです。また、元禄3年(1690)オランダ東インド会社の エンゲルベルト・ケンペルが書いた『日本誌』で木屋瀬,黒崎の石炭が紹介されていたことが、シーボルトの『江戸参府紀行』に出ているそうです。)。 すぐ東に吉祥寺と吉祥寺公園があります。また目の前の光照寺一丁目で弥生時代の環濠集落址である「光照寺遺跡」が出土しています。

「光照寺遺跡」では竪穴式住居跡のほか、剣、土師器、瓦器、舶載青磁、白磁、石庖丁、小型内行花文倭製鏡、銅製鋤先などが出ました。弥生時代にすでに土師氏が居て採掘を行っていたようです。ここは古代から知られた古い鉱山だったのです。そうそう、土師氏の祀る吉祥天は七面天女=多紀理毘売でしたね。

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by furutsuki_oto | 2017-02-19 11:32 | 鞍手・宗像 | Comments(0)

道中 松隈の 磐座


道中 松隈の 磐座

宗像大社社伝や鞍手の神話伝承では、三柱の女神は六嶽(むつがたけ)に降臨したといいます。日本書紀には「即以日神所生三女神者、使降居干葦原中国之宇佐嶋矣。今在海北道中。号曰道主貴」と記載があるのですが、鞍手では六嶽に降臨した三女神は、宇佐島、道中をへて400年くらいかけて赤間方面へと移動していき、今の宗像大社の場所に落ち着いたと伝える方もいます(あくまで聞いた話です)。宇佐島は六嶽の麓にかつてあった字で、いま宇佐寺があります。道中は、いま鞍手町に「道中交差点」というのがあるのですが、神崎の東から松隈・浪内あたりの細長い一帯のことも道中と地元の人々は呼びならわしています。鞍手町の剣岳の北の麓の中山の新橋から北が海中であったとき、ここが重要な交通路だったのだろうということです。

つづきがあります。私が中学生の頃(40年近く前)、鞍手で聞いた話では、三女神を祀る一派は分かれて到津荘のほうへもいったとも。小倉の香春口に近いところです。 さらに、私が高校生の頃、八幡にお住まいの宇佐一族の方から聞いた話では、到津より香春へ、そこから更に行橋、中津となんども遷宮してのち豊後の宇佐に落ち着いたとききました。中津の薦神社が宇佐神宮の元宮のひとつとも。こういう口伝はどこまで裏がとれているのでしょう。

ところで先ごろ、「松隈」は、宇佐宮の玄関口という話を知りました。宇佐託宣集によると、養老四年(七二〇)大隅・日向の隼人が反乱した際に八幡神自ら打ち取った隼人の首が埋められているということです。宇佐神宮の元宮の中津の薦神社の創建は承和年間(834-848年)だそうですが、そうすると、中津時代よりも更に前の宇佐社の脇にあった松隈の話なのかもしれません。そういえば、小学生の頃、鞍手の松隈の友人が武将の首が埋まっているという話をしていたのを聞いたことがありましたがその頃は何のことやらと聞き流していました。

しかし思い出したことがあります。 鞍手の道中の松隈・浪内に古月中学校がありましたが、その校庭には巨大な岩がありました。小学生がふざけて岩に乗ったらこっぴどく叱られてましたが、一度に五人ほど上っていたので、4~5メートルはあったろうと思います。最近、昔の航空写真にアクセスできるようになったので、確認できるかなと思って探してみたらありました。これです。

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赤丸で囲ったところに巨石がありました。当時、これは何かと教頭先生に尋ねましたら、学校を建てるまえからあった。三つほどあったが置いておけないので一部のみ残した。というような話でした。古月中学校は、丘のうえにありました。今思えば、古月中学校はちょっと変わった立地で、正門は急峻な石段(三十段以上四十段くらいはあったかと記憶)を上ったところにあり、大きな御影石の石柱門がありました。今ならわかります。この巨石は「磐座」だったのですね。今はもうありません。


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by furutsuki_oto | 2017-02-14 00:18 | 鞍手・宗像 | Comments(0)

布留神社・龍神社 (鞍手町古門)


布留神社・龍神社 (鞍手町古門)

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1930年の鞍手町北部の地図をベースとして、主要な土地の字(あざ)を書き込むとともに、古物神社に合祀されている 剣神社の元宮、布留神社の元宮、龍神社の元宮、消滅してしまったお宮などを書き込みました。

古門の剣神社の上宮は、龍神社だったのでした。 古物神社に合祀された龍神社の祠は、るなさんと七色さんと古物神社に参った際にも確認しました。

古野谷の北側には、秦氏が住んでいたと聞いていました。実際、秦氏の信仰する神様の神社が集中していました。 松尾神社、弥勒神社、保食神社がありました。ここは、宗形のうちでした。

上の地図に出てくる地名で、金銀宝飾が出土した遺跡・古墳について、追記しておきます。

古門松ヶ元6号古墳 銀環(耳飾り)x2、碧玉製管玉、ガラス製玉類、土玉 (首飾り)、須恵器

古月横穴 金環(耳飾り)x5、銀環(耳飾り)x3,、他17、メノウ製勾玉、タマキ貝製腕輪(釧)、玉類(首飾り)、馬具, 滑石製紡錘車、直刀, 鉄剣, 鉄鏃, 須恵器, 土師器

向山古墳群(1号墳・4号墳) 銀環(耳飾り)x1, 銅製耳飾りx3、土玉(首飾り)、紡錘車、須恵器、土師器

神崎2号墳 内行花文鏡片、鉄斧、須恵器、土師器、土器28

※ 地図は、筒井 甫 先生の本のとも突合せましたが、おかしな点があればコメントでご指摘ください。

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by furutsuki_oto | 2017-02-13 00:29 | 鞍手・宗像 | Comments(2)

1930年の鞍手町北部の地図


1930年の鞍手町北部の地図

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市町村合併前の古月村、虫生津村だった時代の1930年の鞍手町北部の地図を入手しました。(なんと横書き文字が右から左です。)

市町村合併後の地図では、住所表記において小字(こあざ)が消えてしまったばかりか、村名が大字(おおあざ)になって本来の集落の字(あざ)とは違う場所に字名が記入されたりして、神話伝承を土地の字と結びつけて説明するのにややこしい事態になっています。また古い地図を使うと炭鉱開発による陥落地や、ため池の埋め立ての影響もなくなります。そこで、この古い地図をベースに古地図に載る字名を追加して、鞍手神話の伝承説明に使おうと思い立ちました。

作業はこれからですが、とりあえず、入手した地図を貼っておきます。 虫生津、掛津、松隈などは、これが土地で呼ばれる字の本来の位置です。なお、「春日」(かすが) と「道中」(どうちゅう) は少しひろい地域を含みます。木月の東の低地や浮洲(ふしゅぅ)の南の低地、さらに金丸炭鉱の西の低地も「春日」のうちに入ります。浪内や松隈も「道中」のうちです。それから「中底井野」も広い地域名です。浅木宮の境内には "此処ハ中底井野" という石碑があります。もともとの中底井野は、遠賀町の一部と中間市の一部にまたがっています。


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by furutsuki_oto | 2017-02-12 17:49 | 鞍手・宗像 | Comments(1)

梅咲天満宮(香月)


梅咲天満宮(香月)
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香月電停の目の前にあります。梅咲天満宮です。
所在地は、北九州市八幡西区楠北3丁目14

皿倉(日枝)-中山ライン上の社寺を順にみていっています。

いまでこそ 天満宮 になっていますが、この形、古墳ですよね。

香月の地名の由来は、小狭田彦が日本武尊を歓待した折に日本武尊が詠った次の歌と伝わっています。
「あな楽し、花の香り月清きところかな。今よりこの地を香月のむらと名づくべし」

香月は、もとは葛城と書いたとか。「香月氏」は、神功紀に出て来る「葛城襲津彦」の末裔だそうです。

梅咲天満宮は、まだ紹介していない別の五芒星のらせんと関わっていますが、それはまた後日。


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by furutsuki_oto | 2017-02-11 01:03 | 鞍手・宗像 | Comments(0)

中山(鞍手町)


中山(鞍手町)

物部氏が絡む産鉄地形に「中山」という地名がよく見られるようである。

ここは鞍手町の中山 (中山本村あたり)。熱田神社と八剣神社がある 剣岳 と 鷹ノ口おだ山 の間にある集落である。

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新北物部の里である 新北 から冬至の日没のレイライン上に並んでいる。剣岳山頂には、八剣神社の上宮がある。戦国時代に剣岳山頂に城が建てられることになって八剣神社の拝殿が遷されたようだ。 こうして拡大してみると、植木の須賀神社もライン上にあるようだ。 鷹ノ口おだ山の真東に、熊襲の 江上梟師(たける)が居たという金剛山が見える。

鞍手郡野面村八所大明神並びに同社境内にあった寿福寺の古文書によると、
 昔景行天皇の御躬親豊国の土賊を誅せんと欲し、周芳の沙磨の津を解纜して筑紫に幸し、到って香月君の祖小狭田彦の方に住み給う。而して宗形県主至る。一日天気夙に起き四方佳景の庄商の丘上に映照す状を眺望し、小狭田彦を召して曰く、嗚呼好哉彼野中の丘は。朝日の直刺し夕日の暮愛すべき丘なり。朕彼地に臨幸して親しく鎮魂を為さんと欲す、汝宜しく朕が為に其の設有るべし。是に於て小狭田彦寺を其の丘に建て竜尾扈従して鎮祭す。
(中略)
小狭田彦を以て鞍手の県主と為し且つ聞の田五十丁を賜う。
とある。

現在のおだ山は、木々が生い茂っていて見晴らしが悪いが、東の平地からの眺めで代用してみると・・こんな感じ。

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鷹ノ口おだ山は、真東より南30度(四時の方向)に福智山、真東より北30度(二時の方向)に帆柱山がみえる位置にある。(皿倉山は帆柱山とほぼ重なってみえている)

日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠ったという。小狭田彦の子孫が香月と名乗った。

香月の君 小狭田彦の娘 常磐津姫は日本武尊の妃となる。常磐津姫には男子が生まれた。その名を御剣王という。御剣王は成長すると父 日本武尊の東征に従って行った。

※ 剣岳山頂は、木が伐採されて、眺望が復活しているとの情報をいただきました。


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by furutsuki_oto | 2017-02-11 00:24 | 鞍手・宗像 | Comments(0)

宗像三女神と賀茂の関係


宗像三女神と賀茂の関係

宗像三女神は、筑紫と山背の両方で信仰されています。宗像三女神に関する伝承は、筑紫においてより厚く広く感じます。しかし大国主との関係においていつも混乱するので、少しずつ 系図をまとめていました。

神倭伊波礼毘古命の母の玉依姫命と、賀茂別雷神の母の玉依姫が同じ方なのかどうかまだ悩んでいたのもあります。別の方であるとしてみると、こんな系図になりました。

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ツッコミどころ満載なのは承知です。異説がいろいろあって唯一に決まらないところは都合の良い方を採りました。仮説として、饒速日=三島溝杭耳命 説を採っています。

とりあえず、大国主は複数います。大物主も複数います。いずれも地位と職責を表す名前との解釈です。
八重事代主と都味歯八重事代主も別の方と解釈しました。
古月の今段階のひとつの解釈です。

この図をみると、深草宝塔寺七面堂の七面大明神と賀茂御祖神社の関係も一目で納得できます。(古月のおと『深草 七面山』参照)

しかし、よく言われるように瀬織津比売命が天甕津日女だとすると、赤衾伊努意保須美比古佐和気能命 がなんか凄いことになってしまうのですが・・・構わず先に進むことにします。

系図を見ると、神倭伊波礼毘古命に東の地を薦めた塩土老翁、塩治比古命のことだとしたら、伊波礼毘古の甥ではないですか !? イメージ崩壊しました。


また、饒速日命の孫娘の婿が神武で、神武の岳父が事代主になります。国譲りから神武東遷まで、せいぜい30年~50年くらいだったのかも・・・なんてことになるんですが・・・

この婚姻関係から、意保須美比古は瀬戸内航路を開いて実質支配していたようにみえます。でもって、新北物部(阿刀氏の祖 饒田命)が神武東征に随行していますから、饒田命は爺っちゃんの里で育ったことになります。筑紫と摂津を結ぶ瀬戸内航路の両端のターミナル港を住吉一族でおさえていたわけです。


さて、『摂津の「高月」』で書いたことを引用しますが、物部氏(ここでは物部長者の家系のこと)の祖といわれる宇摩志麻遅命(宇摩志麻治とも書く)は、神武東征の時に功あり、三島溝咋が治めていた土地を与えられています。宇摩志麻治の旗印が月だったこと、天月弓杜(あめのつきゆみのやしろ)を祀ったことから一帯は高月(たかつき)と呼ばれるよになり、のちに字が変わり高槻と書くようになったと伝わっています。また、淀川の三島の津は筑紫津と呼ばれるようになりました(現存しています)。事代主と三島溝杭耳命(みしまのみぞくいみみのみこと)の娘・玉櫛媛の間にできた娘・媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)が、神武天皇の皇后になりました。

ここで、上の系図をみてみると、饒速日=三島溝杭耳命=意保須美比古が拓いた摂津の三島の筑紫津と瀬戸内航路の利権を巡って饒速日の子らの間に反目があったようにみえます。丹波出身の伊可古夜比売命(伊賀古夜日売とも)が生んだ子 がいたであろう三島が磯城(大和)の登美夜毘売の子に譲られた形になっていています。また、三島(高槻)の地はオリオンの三ツ星信仰から月信仰に塗り替わりました。 追い出された者たちは、筑紫の大国主(大穴持)と国替えになり、国を譲った事代主とその子らが山背・桑田(南丹)の開拓にまわったように見えます。まったくの私見ですが、これが真相だとしたら衝撃です。

高槻からみて淀川の対岸の枚方・交野一帯は、宇摩志麻治から六代目の伊香色雄が開拓しました(いつのまにか丹波系の「伊香」になっていますね)。磯城(今の天理市、橿原市、桜井市、宇陀市のそれぞれの一部に跨る辺り)の開拓もこの一派になります(蛇足ですが、旧 磯城郡のうちの桜井市に登美の地名があります。)。 

宇摩志麻治の異母妹に伊香色謎(いかがしこめ)命がおり、8代孝元天皇の妃となり、後に9代開化天皇の皇后となり、10代崇神天皇の母となります。伊香色謎の子孫は、伊香色謎―彦太忍信―屋主忍男武雄心―武内宿禰―葛城襲津彦―磐之姫(16代仁徳天皇の皇后)と続き、物部氏は天皇家との関係を密にして大躍進することになります。

ところで、宗像市赤間の八所宮と遠賀郡岡垣町(崗の湊)の高倉神社の伊賀さんは、神功皇后の三韓征伐の折に磯城の兎田(宇陀)からやってきた伊賀彦命の末と伝わっていますが、冶金や最新大型帆船技術にかかわる物部さんだったんでしょうね、きっと。 

伊賀彦命の母 弟橘媛は山代玖々麻毛理比売か(意味は、山代の栗隈の守の娘の意か。山代の栗隈は、和名抄にみえる山城国久世郡栗隈郷、現在の京都府宇治市大久保周辺であるようです)。 弟橘媛は穗積臣等之祖建忍山垂根の娘ともあります。穗は火に通じ、穗積は物部の正統とも。なんとなく見えてきた気がします。

つまりは結論として、鞍手・宗像の物部と、交野・磯城の物部は、どちらが先かではなく、航路の両ターミナルに同時発生したことになります。その両方の地に七夕伝説の神社があるのも定期航路の存在を伺わせます。

やがて穂積、安曇(阿積)、出雲積、津積(尾張氏)、鰐積、鴨積などに分かれ、さらに時代が下るとともに、まつろう内物部と まつろわぬ外物部が対立してしまったようです。 やはり母系をみていかないといけないんでしょうなぁ。

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by furutsuki_oto | 2017-02-10 00:05 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

熱田神社(鞍手町)の椿模様


熱田神社(鞍手町)の椿模様

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これまで、鞍手町の長谷寺、笠岡市神島の七面神社南丹市みやま町の古民家に「椿の花弁様の模様」があしらわれた鬼瓦なり杉板をみつけていますが、もうひとつ見つけました。 鞍手町の新北(にぎた)の亀甲にある熱田神社にありました。 

鞍手町の熱田神社もすっかり有名になって、神紋が尾張の熱田神宮と同じ「桐」であるとか、宮司家も同じ金川(かながわ)氏であるというのは指摘されておりましたが、この杉板をよ~くみかえしてみると、「椿の花弁様の模様」がクッキリとあしらわれておりました。

ここは今でも聖地で、椿の花を持ち出すことも戒められています。

ここは饒田物部(新北物部)の地、金川家の祖先は「鞍橋ノ君」と伝わっています。鞍橋ノ君は、鞍手町長谷(はせ)の飯盛山(いいもりやま)に眠っておられるそうです。そこには鞍橋神社があります。


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by furutsuki_oto | 2017-02-01 19:08 | 鞍手・宗像 | Comments(0)
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古月 乙彦 のブログ  神社とか星とか 古代のロマン.    Since 2016.1.22


by 古月 乙彦(ふるつき おとひこ)
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