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深草 七面山

深草 七面山

京都の東山三十六峰の南端、伏見稲荷のある稲荷山から南に続く丘陵に深草山宝塔寺がある。有名な伏見稲荷大社から歩いて15分くらいです。

宝塔寺は、平安時代に藤原基経の発願により創建された真言宗極楽寺が前身で、住持の良桂が日蓮宗の日像に帰依し、寺の名を宝塔寺に改めました。

この宝塔寺の裏山は七面山といいます。七面山の山頂に建つ七面堂は、法華経を守護する七面大明神を祀るお堂だそうで、近世中期までは七面山信仰の関西における拠点として多くの参詣者を集めたようです。

宝塔寺七面堂の建築様式は、現在の賀茂社本殿とよく似ています。実際、現在の宝塔寺七面堂は 旧 賀茂神社本殿を移築したもののようです。詳しい話は省きますが、これは宝塔寺七面堂の修復の際に使用されている材木等の墨書から判明したとのこと。

七面大明神と賀茂神社、どう繋がるのでしょうか。

七面大明神は、釈尊の応化身として法華信仰を守護する為に身延山の西、鬼門を封じ七面を開く七面山の頂きに垂迹示現された吉祥天。右手に鍵、左手に宝珠をもつ、別名、七面天女。また、七面山にあるといわれる泉に住む赤い龍の化身。七面大明神の本地が法華経第十二の提婆達多品の八歳の龍女とする説もあるとのこと。

日蓮宗総本山大石寺・要法寺所蔵の『御義口伝』古写本において、提婆品の沙竭羅竜宮の龍女について、次の様にある。「殊此八歳龍女成仏帝王持経先祖タリ。人王始神武天皇也。神武天皇地神五代第五鵜萱葺不合尊御子也。此葺不合尊豊玉姫子也。此豊玉姫沙竭羅龍王女也。八歳龍女姉也。然間先祖法華経行者也」

なんと、この龍女の姉は神武天皇の祖母にあたる豊玉姫であると書かれています。 『日本書紀』の海幸山幸神話では豊玉姫命を玉依姫尊の姉としていますから、この説をとると 七面天女は綿津見大神(海神)豊玉彦の娘の玉依姫となります(1)。

玉依姫は『日本書紀』の天孫降臨の段および鵜葺草葺不合命の段でも、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)の母として登場します(2)。また、豊玉姫がホオリとの間にもうけた子である鵜葺草葺不合命(すなわち豊玉姫の甥)を養育し、後にその妻となって、五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、若御毛沼命(わかみけぬ)を産んだとあります。末子の若御毛沼命が、のちの神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ)です。この話も御義口伝の話と特に矛盾はしないようです。

一方、山城国風土記(逸文)の賀茂神社縁起(賀茂伝説)では、玉依姫は賀茂別雷神の母として登場します(3)。ここでの玉依姫は建角身命(タケツヌミノミコト)の娘であり、丹塗矢(本性は火雷神)と結婚して賀茂別雷命を産んだとされています。

うーん段々と迷宮に踏み込んでいる感覚です。

宝塔寺七面堂が実際に旧 賀茂神社本殿からの移築であることが判っているのですから、ここは賀茂御祖神社(下鴨神社)に戻ってみます。

賀茂御祖神社の本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、左に玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀っています。 『古事記』では、迦毛大御神(かものおおみかみ)は阿遅鋤高日子根神となっています。でもって、阿遅鋤高日子根神は大国主命と多紀理毘売命(宗像三女神の一柱)の間に生れている。

(1)(2)と(3)の玉依姫は別のお方なのでしょうか? いやここは敢えて同じ方であるとしてみましょう。すると、七面天女=玉依姫=多紀理毘売命 ということになります。

『出雲国風土記』もみておきましょう。「阿遅須枳高日子の后、天御梶日女命、多宮の村に来て、多伎都比古命をお産みになった。」

多伎都比古命の父神は阿遅鋤高日子根命で母神は天御梶日女命(アメノミカジヒメ)。そして祖父神が大国主命(オオクニヌシ)、祖母神が宗像三女神の多紀理比売命(タギリヒメ)です。(1)(2)と(3)の玉依姫が同じ方であるとしても、問題は生じませんでした。

七面天女は多紀理毘売命 ということで良いのかな?

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by furutsuki_oto | 2016-11-29 19:25 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(5)

片野物部 2 倉治古墳群

片野物部 2 倉治古墳群

片野物部」で交野市北部の倉治(くらじ)地域の話を少ししました。
今日は、その続き、交野(かたの)周辺の遺跡・古墳についです。

時代別にざっくりと整理すると、交野周辺には次のような遺跡・古墳があります。

〇 縄文遺跡
 神宮寺遺跡と星田の旭遺跡は、縄文遺跡です。 狩猟・漁労・植物採取の生活をしていた集落の痕跡があります。

〇 弥生遺跡
 ご存じのように 3世紀頃までに北海道を除く全国に稲作農耕が広がって行きました。 また弥生時代の遺跡になると金属器の使用がみられます。 交野市内の弥生遺跡としては、私部・倉治・郡津に弥生集落の遺跡があります。

〇 古墳
 交野市の古墳は、鍋塚古墳・森古墳群が古墳時代前期(4世紀)、 東車塚古墳が中期(4世紀末~6世紀)のもので、寺古墳群や大畑古墳、 倉治古墳群、清水谷古墳は後期(6世紀後半~7世紀初頭)のものです。

では、名前からして気になる「倉治古墳」についてみていきましょう。

 発見の経緯は以下のようでした。枚方変電所の建設が関西電力により計画された際、昭和26年初め用地内の丸山(交野市東倉治3丁目の丘陵)が古墳ではないかという連絡があり調査が始まった。丸山そのものからは遺構・遺物の発見はなかったが、丸山の南側、「中山路」を越した付近で横穴式石室(第8号墳)が発見され、次々と全部で8基の古墳群が発見された。

 倉治古墳群の8基の横穴式石室の構造には、羨道が見られない特色がある。「秦氏」など朝鮮半島南部からの渡来系氏族に見られる構造の石室であり、6世紀後葉、郡津・倉治の地に置かれていた交野地域を統括し天野川の水運や大和への陸路をも管掌する行政機構にあってその中の中核となった官人群-秦氏の墓地であったと考えられている。倉治古墳群からの出土品の数々は、交野市立歴史民俗資料室で見ることができます。

 さて、「中山路」なるまた気になる道の名が出てきました。この道は、かつてあった中山観音寺へ続く古道です。中山観音寺は、南北朝の動乱で焼失し、今は(枚方市)観音山公園となっています。観音山公園には牽牛石(けんぎゅういし)と呼ばれる巨石があります。天の川を挟んで対岸にある交野市の織物神社に祀られている織姫と対になって七夕さまとして信仰されています。この七夕信仰は、平安時代に根付いたもののようです。

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by furutsuki_oto | 2016-11-28 19:57 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

亀岡盆地周辺の「椿」地名


亀岡盆地周辺の「椿」地名

美山かやぶきの里」で書いたように、茅葺屋根の杉板の「椿」のような模様と口丹波一円の「日吉」信仰をみて、口丹波においても鞍手や筑後のように「椿」地名が残っているんじゃないかと思いたち、亀岡盆地周辺の「椿」地名と神社配置を拾い上げてみました。

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京都府亀岡市宮前町猪倉椿原
京都府亀岡市篠町王子椿谷
京都府亀岡市馬路町中椿

の三カ所見つけました。亀岡盆地を取り囲んでいます。いずれも盆地の出入口となる谷近くですね。

桑田神社・請田神社のあたりから保津狭の開削が始まったと伝えられています。この伝承の詳しいところは「丹波の出雲」で書きましたが、要は宗像神が連れてきた大物主が保津狭の開削に協力したとする話です。

亀岡・稗田の辺りが古代の桑田郡の中心であり、西に見える山は朝日山となります。

稗田野神社(ひえだのじんじゃ)と御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、佐伯郷の産土です。佐伯郷は現在の亀岡市宮前町猪倉、稗田野町全域、吉田、並河、宇津根にあたりまでを含みます。詳しくは「磐栄稲荷神社」で書きました。御霊は後に葛野に遷り、さらに伏見へと飛んでいきました。

亀岡城址を北に上がっていくと、千歳の出雲大神宮につきあたります。ここで思い出すのが、832年の藤原千歳麿の宗像下向です。千歳麿は「千歳」の地で育った方なのでしょうか。

目を転じて行者山の東側山麓を見ますと、 竜王・大谷・西山 の小字が並んでいます。この並び、どっかで見たような・・(^^)。

更に行者山の北山麓に「妙見宮稲荷神社」、北辰信仰と御霊信仰が習合しているようです。


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by furutsuki_oto | 2016-11-27 16:01 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

鎌倉神社


鎌倉神社

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先日、美山かやぶきの里に行った際、社を見つけて参拝しました。
北村の東北の山ふもとに鎮座しています「鎌倉神社」です。
御祭神は勝山大神。美山北村を拓いた氏族のひとつ勝山氏の祖神を祀るとのこと。
社格は不明。祖霊社の扱いのようです。神紋は、十二星の連珠三つ巴。

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十二星は初めて見ました。

口丹波では、父系出自を基礎とする疑似同族集団である「株」が今も存続しています。「株」は山、墓地、祠などを共有するそうです。特に同一信仰の場合「講」ともいうそうです。美山北集落には、北村稲荷神社、鎌倉神社、津本社の三苗社がみられます。北村稲荷神社を中野苗講が、鎌倉神社を勝山苗講が祀っています。津本苗講は北集落に残っておらず、中野苗講が代わりにお祀りしているんだとか。

ところで、口丹波で「鎌倉」といえば、連想するものが二つ。愛宕の月輪寺も鎌倉山でした。
そして口丹波のうちにもうひとつ亀岡市東別院町にも「鎌倉神社」があります。
こちらのご祭神は、大巳貴命、少彦名命、事代主命。
東別院の鎌倉神社の境内は19,338㎡、社有林は3万余㎡と広大な社域を有しています。
写真がないので、そちらの紹介は また今度。

「鎌倉」は何を意味しているのだろう。

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by furutsuki_oto | 2016-11-23 13:25 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(2)

美山かやぶきの里


美山かやぶきの里

京都府南丹市美山町(みやまちょう)の美山かやぶきの里・北村へ行ってきました。


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ここは、旧 京都府北桑田郡美山町 です。古代は丹波國ですね。

「和名抄」に丹波國について「國府在桑田郡」とありますが、この桑田郡が明治以後に分かれて北桑田郡と南桑田郡、亀岡市等になりました。桑田郡というのは、大山咋と大物主が並んで開拓したという伝説がある土地です。平成18年(2006)、北桑田郡美山町は近隣の4町と合併して「南丹市」となりました。

さて、かやぶきの里にある民族資料館にいってみると、萱葺屋根の抑え芯の先に付ける杉板が取り外されたものが足元に置いてあるのにふと目が留まりました。

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この文様・・・椿のような渦模様と、ハート、そして渦巻き・・・どこかで見た覚えが・・・。そう・・鞍手の長谷寺でみたあの瓦にあった文様と似ています。ひもろぎ逍遥の「脇巫女 33十一面観音」でも採りあげられていた、これです。

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渦巻や流紋をあしらった瓦はよく見かけますが、椿の花のような渦巻は、珍しいものであると思います。偶然の一致じゃあり得ないですよね。

丹波国造であった海部氏は、火明命の子孫と伝わっています(出典:勘注系図)。そして丹波国一の宮は、桑田郡の(亀岡市千歳町にある)出雲大神宮でした。また、南丹市や亀岡市には、日吉神社がいくつも祀られています。
で、「椿」地名でも近くにあれば、対応関係は明らかです。この話、また後日書きます。

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by furutsuki_oto | 2016-11-22 00:19 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

片野物部(かたのもののべ)

片野物部(かたのもののべ)

貝原益軒の「筑前國續風土記」に次なる記事があります。
「聖徳太子の傳に曰、守屋二男片野目連、四男辰狐連等を筑前國鞍手郡に流す。」
物部守屋が討たれた(587年)のち、守屋の次男と四男が鞍手郡に流されたというのです。

ここに出てきた「片野」というのは地名からきたウジ名です。河内國に交野郡がありました。片野・肩野などとも書きますが、和名抄に「加多乃」と読むと書かれているので、今の交野市あたりのことです。交野には、星田、天野川、八丁三所伝説、機物神社の七夕伝説など星にまつわる地名・伝説が多く残っています。この地は物部氏と関係が深く、「交野物部」の本拠地でした。

交野市私市(きさいち)の哮峯(いかるがのみね)は、物部氏の始祖とされる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が肩野物部など一群を引き連れて天降った場所。哮峯の横を流れる天野川の川縁には、巨石を祭神として祀っている磐船神社があり、その祭神はニギハヤヒが天降った時の「天の磐船」とされています。『先代旧事本紀』において、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊に随行した天物部等二十五部人の中に赤間物部や筑紫聞物部、筑紫贄田物部ほかと共に肩野物部がみえます。片野物部は筑後の片野もしくは北九州の片野からここ河内の地に入ったものと推測できます。

『先代旧事本紀』天孫本紀には、物部尾輿の子の物部大市御狩連の弟に物部臣竹連という名がみえて、「肩野連。宇遅部連等祖」とされています。ここにみえる尾輿が、物部守屋の父です。

日本書紀 雄略天皇十八年八月戊申条には、「物部目連、筑紫の聞(きく)の物部大斧手を率いて、朝日郎(あさけのいらつこ)を捕えて斬る」の記事がみえます。ここに出てくる物部目連と守屋二男片野目連は同一人物でしょうか。

「聖徳太子の傳に曰、守屋二男片野目連、四男辰狐連等を筑前國鞍手郡に流す。」というのは、物部宗家失脚後、同族預かりで出自の地方に蟄居させられたということなんでしょうか。

交野市のホームページ等を見ていると、交野の歴史は、交野市北部の倉治(くらじ)地域に今から1600年ほど前に一族をひきいて帰化した漢人庄員(しょういん)が機織りの技術をもって拓いた集落に始まると伝わっているそうです。白鳳元年(672年)天智天皇の子・弘文天皇と天智の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)が対立して戦った時、交野山麓の倉治機物は大海人皇子に味方しました。戦勝した皇子は天武天皇となり、倉治機物の首長に交野忌寸(かたのいみき)の姓を与え、この一族は以後益々繁栄しましたとあります。

倉治(くらじ)地域に隣接する交野山(こうのさん)は、生駒山地の北端に位置しており、標高300mながら山頂の観音岩からの眺めは、枚方(ひらかた)や寝屋川(ねやがわ)など北摂から大阪市街、京都南部までを一望できる200度を超える大パノラマです。軍事的に重要な拠点であったことが偲ばれます。

物部守屋が蘇我氏に破れたあと、物部氏は河内の本拠地を失いますが、筑紫饒田物部の末の阿刀氏は山城国、摂津国、和泉国などに分散し官人として活躍したようです。


蛇足ですが、三代実録には片野連道主が姓を良棟宿祢に改めたことがみえます。877年のことです。道主の子に鷹狩名人の良棟宿祢相衝という人物がおり、彼の甥が『落窪物語』『枕草子』『源氏物語』などにみえる交野少将であるとされています。

(つづく)

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by furutsuki_oto | 2016-11-04 19:50 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(2)
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古月 乙彦 のブログ  神社とか星とか 古代のロマン.    Since 2016.1.22


by 古月 乙彦(ふるつき おとひこ)
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