古月のおと

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丹波の出雲

丹波の出雲

京都に隣接する丹波(亀岡盆地)には、丹の湖の伝説があります。丹波は大昔は「丹の湖(にのうみ)」といわれた赤土の泥湖で、松尾大神(大山咋命)が保津峡を切り開いて丹波の水を流し、丹波を肥沃な盆地に変えたというものです。「丹波」の地名も「風が吹くと湖に丹色(朱色)の波が立った様子」に由来するとする説もあります。

京都の観光客にトロッコ列車や保津川下りで知られる「保津峡」ですが、実はそこが亀岡盆地唯一の流出口となっています。他に丹波盆地の外へ流れ出る川はありません。伝承では、その保津峡がそもそも人工河川だという驚きの内容です。

亀岡の「請田神社」に残る伝承は次のようなものです。松尾大神は、葛野(京都)干拓より前にまず丹波を拓いたといいます。最初単独で鍬を入れ始めたが難渋し、胸形神が大国主(大物主)を呼んできた。大国主は現地を見て「請けた」といったので、以後協力して開削を進めたという内容です。
なお、請田神社の祭神は 大山咋神と市杵島姫命です。大山咋神は出雲からやってきた神とされます。大山咋命と大国主命はそれぞれは鋤・鍬をとり並んで丹波開拓に励みました。

大国主が保津峡の開削を請け負ったこの地に創祀されたのが丹波国亀岡の「請田神社」なのだそうですが、請田神社の創祀は709年と伝わっています。現在、請田神社は亀岡を代表する産土(うぶすな)で、周囲には秦氏、出雲氏にゆかりの神社が点在しています。また、「保津」の地名は大国主(大物主)の后、三穂津姫命に由来するともいわれています。

亀岡盆地は、地質学的にも鮮新世・更新世頃まで標高280mほどの湖であったことがボーリング調査で確認されており、周辺の山体には一部平らになっている段丘地形も見られます。亀岡盆地が湖であったことは疑いようのない事実です。


その後、大国主の一族は、続々と丹波に移り住んできます。大井神社の伝承によれば、松尾神社に五人の出雲神のご兄弟がおられた(いずれも大国主の子とされます)。そのうちの御井神(木俣神)が市杵島姫命と一緒に洛西松尾大社から亀に乗って大井川(桂川)を遡上されたが、保津の急流が乗り切れなかったので、鯉に乗りかえて、ここ大井に上陸して鎮座された。

亀岡市千歳町には元出雲といわれる「出雲大神宮」があり、大国主命は、三穂津姫命と共にここに祀られています。出雲大神宮では大国主命の別名を「三穂津彦大神」や「御蔭大神」としています。出雲大神宮の周辺には西山断層が通っており、御影石も採れます。

徒然草の第二百三十六段に「丹波に出雲と云ふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。~」とありますが、出雲大神宮が、その丹波の出雲です。高校生の頃に国語で習った方もいらっしゃるかと思います。

出雲大神宮は、奈良時代の和銅元年(708)に大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそんこままろ)が丹波国司に着任し、その翌年(709)に社殿を建立したとされています。

大国主の一族がどこから遷ってきたのかは明言されていません。三穂津姫命を伴っていることと、「国譲りの所以で坐す」と伝わっていることから、素直に受け取れば、豊葦原中国を譲った後ということは分かるのですが、国譲りした豊葦原中国から直接来たのか、何か所か経由してからなのかは不明です。

ただ、丹波より前の「出雲」は島根県ではないようです。島根県出雲市のいわゆる出雲大社は明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲神社」と言えば出雲大神宮を指していたといいます。(出雲市は、江戸時代までは「出東郡」でした。明治以後に「出雲郡」に名称変更しています。また、出雲大神宮の社伝によると、和銅年中に大国主の一柱のみを分霊し島根の杵築宮に遷したとしています。)

私説では、丹波より前の元の出雲は、遠賀川水系であろうと思います。



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by furutsuki_oto | 2016-02-28 15:13 | Comments(3)

100刻制と十干

100刻制と十干

星見の民の暦において、一日は十の刻(とき)に分けられていたに違いないというようなことを書いてきた。一日を十の倍数に分割するというのは、実際のところあったのだろうか。

現代の中国では、刻(こく)と言えば、15分間のことを指すらしい。「刻」という名称は、漏刻(水時計)の刻み目に由来するらしいが、これが実は100刻制に由来するそうだ。中国では前漢の時代に1日100刻制が確立した。1日は86400秒なので、1刻は864秒(14分24秒)となる。

100刻制は明末期の1628年まで残る。現代の中国での「刻」は15分という感覚は、この辺りから来ているらしい。

日本では、100分割の刻は天文や暦学の分野で使用され、日常的に不定時法が採用されてからも、天文時間では等分のままであった。


100刻を短く表記するには、十の要素を更に十分割すればよい。10の要素は、古来、「十干」すなわち 甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸 と表記されてきた。「十干」は「天干」ともいう。

十干は、五行と陰陽の組合せで木兄(きのえ)・木弟(きのと)・火兄(ひのえ)・火弟(ひのと)・土兄(つちのえ)・土弟(つちのと)・金兄(かのえ)・金弟(かのと)・水兄(みずのえ)・水弟(みずのと)とも表現される。

十進化時間は、東洋だけではない。フランス革命暦の時間の単位は、一日を十の刻に分ける十進化時間制だった。
あと、最近では、スウォッチ・インターネットタイム(Swatch Internet Time)が十進化時間になっている。


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by furutsuki_oto | 2016-02-27 21:15 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

綾戸國中神社

綾戸國中神社
(あやとくなかじんじや)



京都のお祭りで全国的に一番知られているものといえば、やはり「祇園祭」でしょうか。祇園祭は、趣きは異なるものの、筑前、筑豊、豊前にもありますね。根っこは同じなのでしょうか。


京都の祇園祭は、宵山と山鉾巡行が全国的に有名ですが、実は一ヶ月間に及ぶお祭りです。最初に綾戸國中神社から「久世駒形稚児(くぜこまがたちご)」が出て、八坂神社を白馬に乗って参拝します。

稚児の首にかけられた駒形を依りしろにして綾戸國中神社に祀られている素戔嗚尊(スサノオノミコト)の荒御魂(アラミタマ)が、八坂神社に祀られている和御魂(ニギミタマ)のもとへ渡り、2つの魂が合わさる事で素戔嗚尊が復活します。神が宿る駒形稚児は、「皇族下馬」とされる八坂神社の境内も馬上のままです。

ところで、その綾戸國中神社のすぐ近所に家族ともども10年くらい住んでいました。まわりに綾戸國中神社の氏子さんも沢山居ましたので、駒形稚児も子どもの同級生の男の子だったりしました。

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綾戸國中(あやとくなか)神社


京都の小学校では社会科教育の一環で近所の神社の神主さんにインタビューに行ったりします。うちの子は、綾戸國中神社の神主さんにインタビューに行きました。

こんな内容でした。

・綾戸國中神社の御神体は馬の首の形をした彫り物である駒形(こまがた)。これは全国的にも珍しい。

・綾戸國中神社は、綾戸神社と國中神社が合祀されたものである。綾戸神社は、もと大井社と称し大堰川(桂川)七瀬の祓神である。國中神社はもとは上久世の蔵王の杜(現光福寺蔵王堂)にあった。

・元宮(蔵王堂)は、素戔嗚尊が乙訓(おとくに)ならびに山背(やましろ、今の京都)の排水干拓を始めた起点である。

・戦国時代に國中社が綾戸社の境内に移され、以来、綾戸國中神社と称する。

・京都盆地の排水をする頃には、大国主もやってきた。だから八坂神社には素戔嗚の和魂と一緒に大国主も祀られている。


初めて聞いたときはびっくりしました。京都盆地全体が水に浸かっていたというのですから。また、大国主の水利土木技能集団が大勢やってきたようです。(大物主ともされていたり、美穂津媛を后に迎えているので、何代目かの大国主のようです)


久世(くぜ)のすぐ南には、弥生時代の鶏冠井(かいで)遺跡がでています。丹波(亀岡盆地)は巨大な湖だったという伝承がありますし、京都盆地もほぼ水の中だったといいます。周りの古社に残る社伝もそれを補う伝承がありますし、京都盆地の河川はほとんど人工河川です。地殻構造の調査結果からも、どうもここで語られている水抜きの話は本当のことらしいのです。

これは、平安京ができるずっと前、古墳時代かそれ以前の記憶のようです。山背や丹波の水抜きをした人たちがどんな人々で、どこからやってきたのか、これも少しずつご紹介していきたいと思います。

ちなみに、乙訓の排水工事の起点だという水路の名前は、「たかはね井」といい、今もあります。


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by furutsuki_oto | 2016-02-25 23:23 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

春の渡月橋

春の渡月橋

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2014年春に散歩中にスマホで撮影した嵐山の渡月橋です。

そういえば、鞍手町の昔の木月大橋は白御影石と木でできていました。
橋が今の様にコンクリになる前、石橋を解いている石工さんがしみじみと「この橋は嵐山の渡月橋と同じつくりなんだぞ。渡月橋の架け替えにも手伝いにいってたんだから」とおっしゃていました。右京と鞍手は縁(えにし)が深いのです・・


古月は、現在 風邪でダウンしています。


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by furutsuki_oto | 2016-02-24 00:28 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(4)

月守の暦

月守の暦(中編)

前編では、六曜が本来的には「月の位置」から時刻を知るための
日単位の補正表であることを述べた。

これはなかなかよくできている。月の位置を読んで、六曜の補正を加えると、現在時刻が出てくるのである。


星読と月守の併存時代、これは、星読にも影響を与えたに違いない。星読は、もともと真東が昇る星から時刻をとても正確に知ることができた。そして月守の工夫を応用すれば、今度は黄道上の明るい星からも時刻を知ることができるようになる。

まずは月に当てはめた六曜の補正で大雑把には季節の黄道の傾きの違いによる昼夜の長さの違いを補正できるだろう。しかしながら、星読の測定への要求精度にはマッチしない。

六曜は、月にも日にちにも充てられた。それなら、時刻にも充てていけば細密化できると考えるだろう。五芒星のドラゴンカーブを使って観測精度を上げた星読ならば、そう考えるのはとても自然だ。

そんな例は古今東西知られているのか。
実はとても身近にある。

現在の太陽暦で使われている月火水木金土日の七曜は、西洋の七曜からきているが、西洋の七曜は、古くは東洋から影響を受けたものであり、もともとは時刻を支配する曜が一義的なもので、日にちにつく曜日は、その日の0時の曜を指しているにすぎない。
また西洋では、各時刻を支配する曜には北欧の神の名がついているが、これはカトリックの北欧伝導時の影響である。
(詳しくはWikipedia等でご覧ください)

現在の曜日で使われている七曜は、もともと各時刻を支配する曜なのだという。これ大事です。



このやり方は、古代のバビロニア人にまで遡るようだ。


ここで、バビロニア暦の考え方も挙げておく。

バビロニア人たちは、春分の頃の新月の直後を元日とする。
そして、1日を24時間として七曜に対応する神が毎時それぞれを順番に支配するという考え方をした。

本源的な曜の並びについては、地上から見える五惑星、太陽、月
を最大角速度が遅い順に並べて、
土 木 火 日 金 水 月 とした。
(ここでは簡便のために神の名ではなく漢字一文字で表した)

これを各時刻にあてはめると、次のようになる。

    01 02 03 04 05 ・・・ 20 21 22 23 24
第1日 土 木 火 日 金 ・・・ 水 月 土 木 火
第2日 日 金 水 月 土 ・・・ 木 火 日 金 水
第3日 月 土 木 火 日 ・・・ 金 水 月 土 木
第4日 火 日 金 水 月 ・・・ 土 木 火 日 金
第5日 水 月 土 木 火 ・・・ 日 金 水 月 土
第6日 木 火 日 金 水 ・・・ 月 土 木 火 日
第7日 金 水 月 土 木 ・・・ 火 日 金 水 月

つまり、曜日の並びは、時刻の曜から二次的に出てくるのである。

小学生の頃、曜日の並びは何の順番なのか先生に訊いても判らなかったが、こういう理由で決まっているのだった。


しかし、バビロニア暦は、時刻を支配する神の考えがどこから出てくるかは説明してくれない。

おそらくバビロニア人よりもより深く月の動きを観察した民族がいて、彼らは24時間ではない時間分割をしていた。バビロニア人は、その時刻を支配する曜の考え方だけをとったと思われる。


それで、各時刻を支配する曜とは何なのかというと、各時刻が更に細かい単位に分割されて、そのそれぞれに曜が充てられていたと考えると合理的なものになる。

各時刻が更に細かい単位に分割して、七曜を当てるのが時刻の補正表をつくるためなのだとしたら、1時間は何分割されていたのだろうか。

おそらくノギスや計算尺で使われる考え方が使われた。つまり、1時間を8分割して、七曜をあてて、時刻が進むごとにひとつずつ曜がズレていくようにしたものと推察とれる。

つまり、
第一日が土曜日だとしたら、その日の最初の時刻が土に支配されるという意味である。それは、その日の最初の時刻を八分割したより小さい時間単位が 土 木 火 日 金 水 月 土 というように
「土」で始まり「土」で終わるということだ。これが、その時刻が「土」に支配されるという意味だろう。

ノギスのように一目盛ずらした目盛りで黄道上の宿を読むことで、とても正確な時刻の補正表が手に入る。こんな考え方だったと思われる。


今日も随分と長くなったので、一旦、話を区切ることにします。
後編で、最後まで説明できるかなぁ・・



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by furutsuki_oto | 2016-02-17 12:27 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

街に溶ける古墳 3  八尋 幸ノ浦

街に溶ける古墳 3
八尋 幸ノ浦




ここは、福岡県鞍手郡鞍手町八尋。

上方(北)に見える丸い丘は「旭1号墳」。
その下に、削られてしまった前方後円墳でしょうかというような独特の地形が見えます。

この辺りに「幸ノ浦1号墳」と「幸ノ浦2号墳」があったそう。

鞍手町には、大塚古墳や銀冠塚古墳のように、大首長の墳墓と思われる大古墳群がいくつもある。ここもそうだったのだろうか。


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by furutsuki_oto | 2016-02-16 23:55 | 古墳 | Comments(0)

月守の暦(前編)

月守の暦(前編)

「月守」は、天にかかる月から日と時刻を知る術をもっていた。
ただし、月の位置が直接時計の針になるわけではない。

季節によって多少差はあるが、月は毎日、約50分ずつ遅く出る。季節による増減がこれに加わる。季節による増減は、黄道が赤道に対して23.4°傾き、更に白道が黄道に対して5°傾いているからである。

時計の針にする星が赤道から離れるほどに、星の高さ(角度)への季節の影響が大きくなり、星や月の位置から正確な時刻を読み取るのは困難になる。

月の位置を時計の針にするには、補正が必要なのだ。おそらく、「月守」は、月の位置から時刻を読み取るための換算表をつくったのだろう。彼らが使った観測装置からどこまで彼らの暦にせまれるだろうか。


さて、「月守」の精密な換算表を考える前の準備として、江戸時代に使われた日単位の簡単な換算表についてまず学ぶ。


日単位の簡単な換算表は六曜と呼ばれる。

六曜とは、七曜との混乱を避けるために明治期につくられた用語だが、七曜と区別するうえで便利なので、ここではその名を採用することにする。

現在の太陽暦の時代においては、六曜は、月の日にちとの関係が一見して良くわからず、規則的でありそうな、そうでもなさそうな不思議なものとして一種のゲン担ぎの占いのようになってしまっているが、本来は、月の位置を時計とするための補正表だったのだ。

月は日々約30分の1日ずつ南中が遅れる。
簡単のために、この遅れ時間を時刻の単位とする時計で考える。
つまり一日を30の刻(とき)に分ける時計を考える。

天の黄道と白道は5°ずれているだけなので、これから展開する議論においては、その差は無視しておいてよい。

一日を30の刻(とき)に分ける時計なので、赤道を30分割した30の宿(しゅく)を考える。月が日周運動で、この宿のひとつ分を周る時間が刻(とき)の一単位である。また、月は毎日この宿をひとつずつ東へ巡っていく。

月の位置を時計の針とすると、この時計の針は、計りたい時刻に対して、毎日刻(とき)の一単位分遅れる時計である。更には白道と赤道の傾きからくる季節差も重なってくる。

月の位置から時刻を知る補正表をこの宿を用いてつくることができる。それが六曜だ。

江戸時代に使われ、現在も残っている六曜は、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六種の曜である。太陰暦の場合、毎月1日の六曜は、月を表す数字を6で割った余りで決定される。(閏月は前の月と同じになる。)

また日が進むにつれて六曜もひとつずつ進む。月日により六曜が決まることになる。

結局、六曜の定義としては、太陰暦の月の数字と日の数字の和を6で割った余りで決定することになる。


おもしろいことに、年間の催事の六曜と月の形が固定する。

例えば次のような具合である。
元旦   1月 1日 (太陰暦):1+1=2, 2÷6=0余り2→先勝, 朔
七夕   7月 7日 (太陰暦):7+7=14, 14÷6=2余り2→先勝, 上弦
七五三 11月15日 (太陰暦):11+15=26, 26÷6=4余り2→先勝, 満月

月の形で日にちを確定させると、こんなメリットがあるのだ。

一日を30の刻に分割するとすると、
月の位置を時計の針とするための補正表は次のようになる。

       一週 二週 三週 四週 五週
第1日 先勝 +0 +6 +11 +17 +23
第2日 友引 +1 +7 +12 +18 +24
第3日 先負 +2 +8 +13 +19 +25
第4日 仏滅 +3 +9 +14 +20 +26
第5日 大安 +4 +10 +15 +21 +27
第6日 赤口 +5 +11 +16 +22 +28

六曜なので各週はもちろん六日間である。
七日めは翌週だ。五週(つまり30日)で1日分の遅れを取り戻す。

ここで、第一週は、必ず新月から始まる。
誤差を累積させないために、毎月ついたちで六曜は振り直す。
(そこが周期性が乱れる部分にみえる)

これはなかなかよくできている。六曜で針の読み方を変えるのだ。つまり、月の位置を読んで、六曜の補正を加えると、現在時刻が出てくるのである。

ここまでの方法に五芒星は要らない。
六曜の補正表は、一日単位の補正を可能にしている。
六曜は、一日を30の刻に分割した際に有用である。
江戸時代の使い方はちょっとおかしい。


さて、いよいよ本題の「月守の暦」をひもとく準備ができた。
五芒星のドラゴンカーブを利用する「月守」たちは、もっとうまいことやっていた。先の六曜の補正表は、一日単位のものだったが、もっと進んだより精密な補正表を使っていたに違いない。先の六曜の補正表は、一日単位のものだったが、もっと進んだより精密な補正表を使っていたのだ。彼らは、時間分解能3分間で観測された「星読」の成果のうえに乗ることができた。

だいぶ、長くなったので今日はこの辺で一区切り。続きは次回に。


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by furutsuki_oto | 2016-02-15 00:12 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

和邇ケ崎

和邇ケ崎


暦の話や五芒星の地図はマトめるのに なかなか時間がかかるので、適当にほかのお話も混ぜていくことにします。


写真は、鞍手町古門 和邇ケ崎 です。こんもりとした小さな丘です。
和邇ケ崎は小字です。最近の地図には載っていませんが、古い地図には載っています。

a0351692_00450793.png

丘の上には15cmくらいの石を丸く敷き詰めた場所と、もうひとつ形が崩れているがやはり石を敷き詰めたものがありました。また、50cmくらいの珪化木もゴロゴロしています。

ここは、古代の「和邇の燈籠址」と言い伝えられています。この辺りまで和邇の船が入っていたといいます。灯台だったのだそうです。「隣に "和邇の館" もあったそうな」という人もいます。現在では、海岸から8kmも離れています。


セミが沢山とれるのと、楠木の枝を使ったブランコがあったので子供たちの遊び場でもありました。ただ、ここの石を動かすと祟られると子供たちは教えられます。



和邇ケ崎から200m程西に、「舵を掛けていた」という「掛津」という小字があります。また、和邇ケ崎の南400mに「浪内」という小字があります。


鞍手町内には、ここは古代の「津」だったとか、「灯台」だったとか言い伝えられている場所がいくつもあります。



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by furutsuki_oto | 2016-02-14 23:21 | 鞍手・宗像 | Comments(1)

星読みの暦

星読の暦

「ひもろぎ逍遥」で紹介された鞍手の「星読みの民」、
ここでは単に「星読」と呼ぶことにする。

「星読」は、「地に刻まれた時計盤」を使って、その日に真東
から昇る星や 東方最大離角にある金星から正確な時刻を読み
取る技をもっていた。

「星読」は、五芒星をタイリングしたドラゴンカーブを使って
精密観測を行っていた。

今日は、そこから推定される「星読の暦」について考えてみよう。


しかし、その前に太白の暦をざっと理解しておく必要がある。

太白の動きを知る人たちは、太白が天に留まる5つのポイントが
あって、その星座で季節が知れること、これを地上に写した
五芒星を描くことで星から時刻が知れることを知っていた。

彼らは地上に刻んだ五芒星を使って、見えている天(黄道)を
天頂基準の10の区分に分けた。

天には、見えている天(つまり「陽」)と見えていない天
(つまり「陰」)がある。従って、一日は、五芒星を使って
20の刻(とき)に分けられた。

1刻を表す20分画のひと目盛りは、360°÷ 20 = 18°である。
この1刻で星は18°動く。シリウスと三ツ星の経度に相当する。

太白が宿る5つの宮は、五惑星に結び付けて色が充てられた。

ここで、五惑星は すなわち、土星、木星、火星、金星、水星
である。(ここでは、地上から見える最大角速度が遅い順に
ならべた。五行の並びとは違うので注意)

これに対応する五色は、蒼(青)、黄、朱(赤)、白、玄(黒)である。
まんま星の色である(水星が黒なのは、日面通過のとき最もその
存在を示すから)。

太白の暦は、一日を 20の刻に分け、ひとつの五芒星でその刻を
よみとった。20を数詞で表すのも象形で表すのも大変なので、
五色と四獣だったかもしれない。十刻と陰陽だったのかもしれない。
いずれにせよ、一日を20の刻に分けた。


太白の暦の利点は、空がせまい谷でも利用できることである。
ただ、黄道を見ていた点において、大雑把な時間把握だったと
思われる。


さてようやく「星読の暦」の説明に入る準備ができた。

まず、「星読」は黄道と赤道の区別がついており、正確な時間を
測るためには、赤道上の星を使うべきであることを知っていた。

また、五芒星をタイリングしたドラゴンカーブで、精密観測を
行っていた。

鷹ノ口おだ山のドラゴンカーブは、4.5°刻みの目盛りを刻んで
いた。これは、赤道を80分割する目盛りである。

80分割には陰陽と八方位そして五色の考え方を使ったと思われる。
4.5°の目盛りからは、45°ずつの方位も出てくるのである。

彼らは恐らく見えている南天を東の空と西の空に分けて考え、
それを五芒星に内在する角度から出てくる五色で更に5分割して、
一日を20の刻に分けた。20の刻は太白暦の継承でもある。

鷹ノ口おだ山のドラゴンカーブは、これを更に四分割する4.5目盛り
を与えてくれる。そして読み取りに際し、さらに6分割することで
時間分解能3分の時計を実現していた。

「星読」は、赤道上を動く星を精密観測していたのだ。

彼らはまた、シリウスや8年で5回の東方最大離角をとる金星を
精密観測し、一年が 365.25日 であることを知っていた。

知っていたうえで、周辺の首長たちの召集には太陰暦を用いた。
すなわち、月が無い朔が「ついたち」、三日月が「三日」、
十五夜が十五日という月の形を見れば何日かわかるという方法だ。
星読みは、朔日に首長たちを召集し、うるう月や種まきの旬を
告知した。


鷹ノ口おだ山から見える帆柱山・金剛山・福智山との角度から
判ることだが、彼らは、19年毎のスーパームーンを観測していた。

何のためか。一朔望月は 29.530589日なので、月の満ち欠けだけ
で日にちを決めるやり方だけを押し通すと季節とのズレが激しく
なる。そこで19年に7回の閏月を入れる太陰太陽暦に改良した。

19年に7回閏月入れると、19×12+7で235朔望月である。
これなら19年が6939.688日となる。19太陽年の6936.280日と
極めて近い。
このやり方は、ギリシャでは紀元前433年には知られていた。

「星読」は、現代にも通じる正確な時刻を知る術と太白の動き
から精密化した太陽太陰暦をもっていた。

以上が、星読の暦について、彼らの観測装置から推定したこと
である。


次回は、月の位置から時刻を読み取る方法を編み出した
「月守の暦」を予定しています。


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by furutsuki_oto | 2016-02-07 12:03 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

太白昼見

太白昼見

全天で太陽・月に次ぐ明るさの金星は、昼間でさえ見えることがある。

金星が昼間見えることの記事は、上代から近世まて「太白昼見」または
「太白経天」として数多く記録されてきた。「乱」の予兆と考えられた
ためである。

金星は軌道が地球よりも内側にある内惑星であるため、太陽から48°以上
離れることはなく、離角が約40°のとき、-4.4等まで明るくなって最大
光度となる。これは一等星であるスピカよりも100倍も明るい。

特に東方最大離角の頃の昼間になっても最後まで消えない金星を、陰陽師たちは、最後まで日(太陽)に服属せずに挑戦する星とみていた。

豊葦原中国の国譲りの際に最後まで抵抗したのは、天津甕星
(あまつ みか ぼし)別名 天香香背男(あまのかかせお)
ただひとり。
日本書記において金星に例えられたこの神は、服従させるべき神、
すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。


ところで、古月は、昼間に本当に金星が見えるか自分で試したことがある。暇な高校生のときだった。

夏休みに金星が東方最大離角になった折、芦屋海岸で友人と天体観測を
敢行した。夜通しメシエ天体などを見て過ごし、明けの明星をみてから
そのまま金星が何時まで見えるか浜に寝っ転がってみていた。

夏の抜けるような蒼空に金星が白くポツンとみえた。
眼をそらすとまた見つけるのが大変なので、アナログ時計の文字盤で
太陽との角度を憶えておき、10分おきくらいに確認した。

結果、10時40分までは確実に見えていた。そのあと入道雲がかかり
継続を断念した。当初の予想以上にずっと見えていた。


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by furutsuki_oto | 2016-02-06 16:38 | 星読の系譜 | Comments(2)
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古月 乙彦 のブログ  神社とか星とか 古代のロマン.    Since 2016.1.22


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