古月のおと

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街に溶ける古墳 2

街に溶ける古墳 2


六嶽周辺の五芒星パターンを使って、ここはあやしい
という場所を 古い航空写真 で確認すると、いろいろ
なものが見えてくる。

例えば、こんなの。(写真は1975年のもの)


a0351692_01144452.png

どちらも 700m級である。 

被葬者が歴史に名を残している可能性は高い。
時代別に整理し、他との関わりを明らかにするだけでも
古代史の不明を埋める相当の収穫があるだろう。

安易な盗掘があってもいけないので、
あえて場所は明記しないでおきます。



六嶽周辺の市町には、おびただしい数の古墳が眠っている。


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by furutsuki_oto | 2016-01-31 12:46 | 古墳 | Comments(0)

天の基準点

天の基準点
2016年1月30日

先日、「大地に刻まれた時計」で、時計のない時代から意外にも
精密な天文観測が行われていたこと、黄道と赤道の区別がついて
いて、星を使って正確な時刻を把握していたことを述べた。

しかし、毎日真東から昇る星を時計の「針」とするには、天の
基準点と星図(もはくは基準点との時間差を確定する星表)が必要
である。

古来よりおとめ座のスピカは、春を代表する1等星として知られ
ている。秋分点に近いところにあるために、春分の太陽が沈む頃
に スピカが ほぼ真東の空に輝く。そのため、スピカには 麦の
刈り入れを知らせる星として「麦星」との名もある。

スピカが秋分点の近くにあると述べたが、より正確には、秋分点は
スピカの西方約24°に移動してしまっている。
しかし、1700年ほど前はほぼぴったり秋分点であった。


もうひとつの天の基準の採り方は、春分点である。
実際、現代の星図は、春分点を天の赤道の経度の基準点としている。

春分点とは、太陽の通り道である「黄道」と、恒星が真東から
上り真西へ沈むラインである天の「赤道」の交点にあたる。

昼と夜の長さが等しくなる春の彼岸の中日に太陽が居る方角が春分点
である。


前回も少し言及したが、春分点は黄道上を少しずつ西へとズレていく。
より具体的には、約2万5800年で黄道を一周する。


現在の春分点は「うお座」にあるが、2000年前には牡羊座にあった。
その痕跡は、西洋占星術に残されている。
日本で一般的なTropical式西洋占星術はは牡羊座を基準にとる。

今より4000年前(BC2000頃)には、春分点は牡牛座のアルデバランと
昴(すばる)の中間ほどにあった。、
アルデバランは、牡牛座の眼にあたる赤い1等星である。
昴(すばる)は、八乙女ぼしともいう(西洋ではプレアデス星団という)。

昴の明るい星は七つしか見当たらないが、八乙女のうちの一人は、
天から落ちたので、七人になったと伝えられている。

日の出前の昴(プレアデス)を種まきの準備の目印にしていたという
言い伝えは世界各地に残る。


BC2000年といえば、ヒッタイト人がアナトリアで鉄器を作っていた
時代である。

バビロニアの占星術に起源をもつというSidereal式の占星術では、
牡牛座をサインの基準にとる。

この頃の春分点は、おもしろいことに全天一明るいシリウスと、
オリオンの三つ星とを結ぶ線の延長上にある。きれいに一直線に
ならぶ。三つ星の中星がちょうど中間にくる。

そして三つ星の中星とシリウスの経度差がちょうど18°の関係に
ある。これは金星の五芒星の天を5の倍数に分ける考え方にとって
都合がよい。

a0351692_22553210.png


一方、バビロニア人は、60進法を発明し、星が15°進むのを60分
として、一日を 24時間にわけた。

六嶽の周囲に五芒星のパターンを展開した人たちの流儀は、
バビロニア人の流儀とは異なっていたようだ。
金星の動きとシリウス-三つ星 に由来すると思われる18°分割を
徹底して採用している。


シリウス-三つ星-春分点の一直線の関係は、紀元頃までには通用
しなくなってくるが、

・牡羊座や魚座に明るい一等星がなかったことと、
・三つ星が天の赤道上にきたこと
・シリウスと三つ星の間の角が 15°や18°の目安となったこと

から、三つ星は海の民にその後も信仰されていったようだ。



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by furutsuki_oto | 2016-01-30 23:04 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

大地に刻まれた時計


大地に刻まれた時計

2016年1月29日

古代の「星読みの民」は天の星から正確な時刻を知る術(すべ)を
知っていた。

天の星を「針」に、大地に刻まれた目盛りを「時計盤」にして時刻を
知る方法について説明しよう。

星図がしっかりと出来上がれば、地上の目印を針に、星空を時計盤
にすることもできるが、まずは、天の星を「針」に大地に刻まれた
目盛りを「時計盤」にする方法から説明することにする。

「針」は毎日違う星を採用する。毎日、真東から昇る3等星以上の
明るい星を「針」として採用する。これは、黄道と赤道が傾いて
いるためだ。

赤道から遠い星を採用すると、季節によって(また時間帯によって)
時計の進み方が変わってしまう。 
だからその日に真東から昇る星を時計の針に採用する。
星占術が、日々真東から昇る星を重視するのも同じ理由だ。

五芒星を大地に刻めば、 180°÷ 5 = 36° 毎の目盛りができる。
そして、真東から昇る「星」を針に、この目盛りを時計盤にすれば、
大まかな時間を知ることができる。

目盛りが精密になれば、読み取れる時刻も精密になる。

毎日違う星を針にするから、天に基準を決めて、個々の星の基準から
の角度を知っておく必要がある。

天の基準点としては、明るくて、春分点もしくは秋分点に近い星が
望ましい。 春分点と秋分点で天の赤道と黄道は交差するからだ。

うってつけの星がある。「スピカ」だ。
スピカは「秋分点」のすぐ近くにある一等星である。

星空を見上げてスピカを見つける簡単な方法は、春の夜に北斗七星
の取っ手の部分からうしかい座のアークトゥールスまでの長さを同じ
分だけ伸ばしてみる。スピカはそこにある。

なお、この線のことを天文同好家は「春の大曲線」と呼ぶ。
春の大曲線は、北斗七星(北辰)が支配している。

スピカが秋分点に近いことは、人類は古くから知っていた。
テーベの神殿は紀元前3200年前に建てられた時、スピカの方向を
向いていた。

紀元前150年頃のギリシャの天文学者ヒッパルコスは、黄経180度、
黄緯0度にほぼ近い位置にあるおとめ座のスピカを使い、皆既月食の
時に月とスピカの角距離を測った。

日食や月食は黄道と白道の交点でしか起こらないので、日食・月食時
の月や太陽は必ず黄道上にいる。したがって、この皆既月食時の月と
スピカとの角距離は、そのままスピカと月または太陽の黄経の差となる。

ヒッパルコスはこの黄経の差を、彼の時代より約150年前(BC300年頃)
のティモカリスが作った星表と比較して黄経の値が変わっていること
を発見した。

彼はスピカ以外の恒星についても同様にズレていることを見つけ、
このズレは黄経の基準である春分点自体が移動しているためであると
結論した。

紀元前100年頃には、ギリシャ周辺の海の民も、スピカが秋分点に
極めて近いことのみならず、春分点・秋分点が僅かずつ移動している
ことまで知っていた。

さて、「ドラゴンカーブ 2」 で紹介したパターンは、更に巧妙に、
次の図に示すように、4.5°ずつの目盛りを大地に刻んでいる。

a0351692_23173926.png

24(時間)×60分÷360°×4.5°= 18分

つまり、天に見えている恒星は、18分毎にこの目盛りを
ひとつずつ進む。

遠くの隣接する2点の間を目分量で六分割することは簡単
だから、当時、この目盛りを用いれば、時刻にして
18分間÷6 = 3分間 の精度 (角度にして 0.75°の精度)で
天体現象を観測できたことになる。

この目盛りが大地に刻まれた当時、角度にして 最悪でも
0.75°以上の精度で天文現象を把握していただろうことは
想像に難くない。

太陽と月の視直径は 約0.5° なので、皆既日食を予言して
いたとするならば、少なくとも0.2° 程度の分解能で天文
現象を観察していたはずで、そのための観測装置があって
しかるべきである。

先日の「ドラゴンカーブ 2 鷹ノ口おだ山」と比べてみよう。

a0351692_10382203.png


古代の星の民たちは、我々が古代に対して持っている印象
(先入観)よりもずっと高い精度で星を観ていた。

長くなったので今日の所はいったん話を区切ることにする。

読者の皆さんの頭の中には、

 ・毎日かわる「針」の位置の違いからくる時間差は
  どうやって知るの?

 ・夜は星が時計になることは解ったかったけど、
  昼間はどうやるの?

 ・金星は? シリウスは? オリオンは?

という疑問がでていることと思う。
次回以降、それらについても追々説明してゆこうと思う。


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by furutsuki_oto | 2016-01-29 23:09 | 大地に刻まれた時計 | Comments(0)

六嶽周辺の五芒星 4  福智上野

六嶽周辺の五芒星 4

福智上野

2016年1月28日

六嶽周辺の五芒星をひとつづつ見ていく話にもどることにする。
今回は、福智町上野から直方市下境あたりにかけての五芒星です。

a0351692_19084629.png


これもやはり新延の五芒星と同じ大きさです。ただし、この五芒星とは
関係ない神社も数あります。 また、真ん中を川が貫いており、現在では、
北からも南からもゴルフ場となってしまっています。
昔は集落があったのでしょうか。

この五芒星は、集落の時計というよりは、結界のためのようです。


勘の良い方はもうお気づきでしょう。これまで見てきた五芒星と
あといくつか発見済の五芒星を並べてみますと、八つの五芒星が、
亀丘の劔神社を中心に六嶽をぐるりと囲んでいるのがわかりました。

a0351692_19494412.png


これにはどんな意味があるのでしょう。
今回の図には記していませんが、環の中には三条のらせんがあり、
あたかも六嶽の神紋のようです。

ただ、見つかった環は八つの星からなります。
六嶽の神紋の星の数は九つでした。 またひとつ謎が出てきました。

なお、断層によるズレはなく、最初に見つけたドラゴンカーブに
比べると新しいようです。


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by furutsuki_oto | 2016-01-28 21:02 | 六嶽周辺の五芒星 | Comments(0)

街に溶ける古墳

街に溶ける古墳


今朝はちょっと道くさ。五芒星の話は夜にまたアップします。

写真は、京都太秦の蛇塚古墳の航空写真です。



帷子ノ辻(かたびらのつじ)交差点から500mほど南の
住宅地の中にあります。

日本屈指の巨大石室をもつ75m級の前方後円墳です。
封土はほぼ失われ、石室の巨石が露出しています。
しかし、石室以外の部分はすっかり住宅になってしまいました。

古墳とは知らず家を建ててしまったのでしょうか。
それでも石室が残ったのは運が良かったのです。
江戸時代は蛇の巣、明治期は女盗賊のアジトとなった
ことでかろうじて破壊を免れました。

多くの古墳が高度成長期に発掘調査もされずに
消えていきました。それでも航空写真等で確認すると
うっすらと輪郭が残っていたりします。

こんなふうに古墳が住宅地に溶けてしまった例は
枚挙にいとまがありません。

それでも、うっすら大地に刻まれています。

あなたの地域にも、街に溶けてしまった古墳が
ないですか?


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by furutsuki_oto | 2016-01-28 06:45 | 古墳 | Comments(0)

ドラゴンカーブ 2  鷹ノ口おだ山

ドラゴンカーブ 2

鷹ノ口おだ山


 「ひもろぎ逍遥 脇巫女39 ターゲット」 の方で、「鷹ノ口おだ山」の
「禁足地」探しが急展開を見せている。「御剣王の聖地」とは別のようである。

そこで、「鷹ノ口おだ山」の周辺を見直したところ、最初に見つけたドラゴン
カーブとは異なる時代の異なる形式 の ドラゴンカーブ が見つかった。
これはすごい!

予定を変更して先にこの話を書くことにする。

次の図を見てほしい。

a0351692_02053275.png

きれいなフィボナッチ数列による五芒星のタイリングがドラゴンカーブを
成している。


なんと、このドラゴンカーブは「鷹ノ口おだ山」と「剣岳」の近隣の神社の
配置を説明しつくす。

ただし、六嶽神社、十六神社、貴船神社は排除される。 亀丘にも届かない。

なんだろうこれは。 「六」を排除しているのだろうか。「八」はしっかり
組み込まれている。 これだけ今ある神社にマッチするということは、
きっと数あるパターンの中でも最も新しい部類なんだろう。



「六」を排斥して「八」が支配した時代があった。
そういうことなんだろうか。今もそうなんだろうか。


代行寺の前の池に収束しているが、そこには「古くは高楼があった」という。
いかんせん、聞いたのが子供の頃なので正確な地点が不明である。時代背景
もわからない。どなたか知っていたら教えてほしい。


今回、これまた驚きの結果となった。古代の意思は地に刻まれている。
少しは「鷹ノ口おだ山」の謎解きの役に立つかな?



と、ここまで書いたところで、1975年の航空写真を入手した。


なにか見えるぞ。

a0351692_14434932.png
先述のドラゴンカーブと重ねてみたものが右の絵である。
おぉっすごい。 完全に一致。 感動ものだ。

いちばん下の五芒星は、「ドラゴンカーブ 1」で示した断層ずれ前のドラゴン
カーブの一部である。つまり古いものである。
作ったのは「三」の人達か、「六」の人達か。そして、「御剣王の聖地」に関わっている。


上2つの五芒星が(おそらく「八」の人達によって) 後から作られた(もしくは塗り替えた)ものだろう。

この写真一枚で、

・鷹ノ口おだ山が「六」の人達の頃から聖なる場所であったこと、
・後の時代に(たぶん「八」の人達によって)塗り替えられたこと、
・「五芒星」は実在すること、

いっぺんに証明できてしまった。


新しいドラゴンカーブを見つけた直後に この写真が届けられたのは、
なんというシンクロニシティ。

近頃 不思議なことが続いています。 (^^)V  鳥肌ものです。

写真に ○を付けた場所は、全て神社だったのだろう。今はもう祀られて
いない可能性が高い。

で、禁足地はどこ? 写真で簡単に判るってことはないだろう。だって
隠したいんだから。

写真に描き入れた三つの五芒星の一番うえの分の右足の付け根(中点)
部分、ここは印をつけてないけれど、遺跡があったりするかも。


すごいな 鞍手。



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by furutsuki_oto | 2016-01-26 18:58 | ドラゴンカーブ | Comments(4)

ドラゴンカーブ 1  六ケ岳を取巻く龍の曲線

ドラゴンカーブ 1

六ケ岳を取巻く龍の曲線

2016年1月26日

いよいよ広域パターンを紹介していこう。
今回紹介するのは、六ケ岳を取巻く 龍の曲線 (ドラゴンカーブ) である。
見つけたのは、1月6日。 「龍が出ました」と るなさんにメールして
大騒ぎしていました。

きっかけは、五芒星をみた るなさんが 「炎の聖三角形」を想い起こして
「フィボナッチ」と一言いってくれたこと。

「フィボナッチ数列なら五角形にも内在しますよ。探してみましょう。」
というわけで探してみたら、あっさりと見つかりました。 

むしろ、説明用に図を描くのが大変。

以下は、後日きれいに描き直した図


サイズと配置がフィボナッチ数列になっている。

この時悩んだのが、途中で一回 軸がズレ、そのあと五芒星が二重写し
のようになっていること。

その後、ほかにも同じパターンのドラゴンカーブをいくつか見つけ、
同じようにある境界を越えると二重写しのようになってしまうのを
発見して、横ずれ断層であろうと結論づけた。

もともと黄色い五芒星のドラゴンカーブがあって、断層の横ずれが
起き、のちに白い五芒星を修復したように解釈できる。

そうすると、「六嶽神社」を置き換えたのが 「十六神社」という
ことになる。 また、「春日神社」 は古く、「貴船神社」はもう少し
新しいということになる(比較の問題でありそれでも相当古いのだが)。


このあと、いろいろなことが判っていく。 少しずつご紹介して
いきます。 お楽しみに。

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by furutsuki_oto | 2016-01-26 01:18 | ドラゴンカーブ | Comments(0)

幾何学 2  九つの星

幾何学 2

九つの星

2016年1月25日

六嶽神社(むつがたけ)の神紋には九つの星がある。

a0351692_16232934.png

八剣や八所、八幡は「八」なのに、ここのは「九」。 なぜだろう。

ヒントが何もないので、とりあえず幾何学的作図法を考える。
a0351692_16242440.png

「九」は「三」から生じ、亀甲が統合しているようだ。

そういえば、鞍手の熱田神社がある地の字は亀甲だし、長谷観音も亀甲山だなぁ。

印象としては、有力三家の共和による九部族の統合? 根拠は特にない。 
とりあえずメモ。


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by furutsuki_oto | 2016-01-25 06:10 | 幾何学 | Comments(0)

金星の宮

金星の宮


2016年1月24日

「ひもろぎ逍遥」の「脇巫女」シリーズで、るなさんが「月守」を
追いかけている。

小狭田彦が 月守を打ち破ったというストーリーだ。

その話に沿って解析してみて、六嶽をめぐる五芒星のドラゴンカーブ
ほかの図形が見つかった。

最初のドラゴンカーブが見つかったのは、正月2日のことだった。
今ではもっと複雑なものも見つかっている。
リアルタイムでブログ書けないのがもどかしい。

件の「鷹ノ口おだ山」の 小狭田彦の御子 御剣王の聖地は、
「鷹ノ口おだ山」の五芒星の右足の付け根部分であろうと
推理した。

新幹線と高速の交差するすぐ南のところだ。
(本件、ブログ「地図でつなぐ聖地の旅」のチェリーさん
には大変お世話になりました。)

御剣王の話にかかわる前、私は布留神社と保食神を追っていた。
また、七色には鞍手や小竹にいっぱいある貴船神社と更に
その古層と思われる龍神社の情報を提供していた。

布留、保食、龍を祀る民は、香月よりも古い時代の鞍手の民だ。
彼らは太白暦だったようだった。

そこでまず最初にやったことは、金星の宮を探すことだった。
正月元旦のことである。

探し方の方針は簡単だ。 金星の為の18°間隔の目盛りが
フルセットで残っているところはどこだ?

そういう見方で線を引いていった。結果が次の図である。

a0351692_13415281.png

ちょっと図か小さくて見にくいがご容赦いただきたい。
要は、線が集まっているところが金星の宮の候補地だ。

一番しっかりと残っていたのは、神崎。 神崎神社ではなく、
昔は淡海であったであろうところを挟んだ対岸の丘の上である。
保食神を祀る荒五郎山の南にあたる。

二番目は、布留神社上宮にあたる龍神社址である。ここは予見
どおりというところか。

そしてもうひとつの金星の宮が 鷹ノ口おだ山 にもあった。
そのときはまだ、そこが 鷹ノ口おだ山 という名前だとは認識
していなかった。

正月2日には六嶽を取り巻くドラゴンカーブの一部としてこの丘
(鷹ノ口おだ山)にも五芒星を設定していたが、どちらかというと
小さい五芒星で、五芒星内に神社もなくそれほど重視していなかった。

しかし、 鷹ノ口おだ山の五芒星の頭の付近もまた金星の宮だった
のである。

金星の宮の探し方では正確な地点は出ないが、須賀神社の西の
鷹ノ口おだ山における一番標高が高い地点辺りだろうか。
見直さねばならない。

ちなみに、布留神社址には、古墳時代の須恵器を焼いたという
「古門窯跡」が発見されている。

神崎と鷹ノ口おだ山にもまだ何か眠っているかもしれない。


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by furutsuki_oto | 2016-01-24 14:16 | 大地に刻まれた時計 | Comments(2)

六嶽周辺の五芒星 3  南良浦

六嶽周辺の五芒星 3

南良浦

2016年1月24日

六嶽をとりまく周辺市町の五芒星の実例を順に提示していっている。

今回は、鞍手郡小竹町勝野南良浦(ならうら)に見える五芒星を示す。

a0351692_09393486.png


ここは、後で述べることになるいろいろな大域パターンに
複合的に含まれる。

きっと古代においては重要な拠点だったのだろう。
「巌嶋神社」にはただならぬものを感じる。

しかし残念なことに、南良浦の五芒星の半分ほどは、
ゴルフ場になってしまっている。

道路が示す五芒星は、二重にブレている。神社が殆どないほう
の白い線で示した五芒星の方が古いと思われる。
地図中に見える橋は、二つとも白い線で示した五芒星の方に
従っている。

ピンクの破線で示した丸は、重要そうなポイントだ。

なにか眠っている。  これはなんだろう。

a0351692_09562010.png


勝野南良浦といえば、言い伝えがいろいろとあると
聞いたことがあるが、残念ながら私は詳しくない。
どなたか詳しい方、教えてください。



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by furutsuki_oto | 2016-01-24 09:59 | 六嶽周辺の五芒星 | Comments(2)
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古月 乙彦 のブログ  神社とか星とか 古代のロマン.    Since 2016.1.22


by 古月 乙彦(ふるつき おとひこ)
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