古月のおと

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カテゴリ:未分類( 7 )

八剣紋


八剣紋

奈良市秋篠町の秋篠寺は、土師氏のお寺ということで有名ですが、大元堂の瓦紋が 八剣紋であることに気づきました。いや 八剣法輪紋 でしょうか。鞍手郡鞍手町新延の剣神社の紋とよく似ています。

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秋篠を本拠にしていた土師安人は、平安京を作るときに山背に招聘されて、秋篠宿禰姓を賜りました。菅原が本拠であった土師古人も、同じく招聘されて、菅原宿禰姓を賜りました。秋篠と菅原はすぐ近所です。のちに菅原道真公は、太宰府への左遷の巡行ルートで(直方市の)植木に上陸し、鞍手を陸行して剣神社に立ち寄ったそうです。 八剣紋と土師氏。今日は とりあえずそれだけメモ。


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by furutsuki_oto | 2017-12-10 00:03 | Comments(0)

太陽方位と高度の計算


太陽方位と高度の計算


京都における日の出方位と日の入り方位の範囲を確認しておきたいと思います。太陽の方位角と高度は、下記の計算式によって計算できます。

[ 計算式 ]
太陽赤緯: δ(太陽光線と地球の赤道面との角度、±23°27'の範囲で変化) [単位: 度]
  δ = 0.33281 - 22.984 cos(ωJ ) - 0.34990 cos(2ωJ ) - 0.13980cos(3ωJ )
    + 3.7872 sin(ωJ ) + 0.03250 sin(2ωJ ) + 0.07187 sin(3ωJ )
 ここで、  ω = 2π/365、閏年は ω = 2π/366、J: 元日からの通算日数 + 0.5

均時差: e(天球上を一定な速さで動くと考えた平均太陽と、実際の太陽との移動の差) [単位: 時間]
  e = 0.0072 cos(ωJ ) - 0.0528 cos(2ωJ ) - 0.0012 cos(3ωJ )
    - 0.1229 sin(ωJ ) - 0.1565 sin(2ωJ ) - 0.0041 sin(3ωJ )

  * 均時差の解説 は、Wikipedia参照。

時角: t [単位: 度]
  T = Ts + (θ - 135)/15 + e  t = 15T - 180
 ここで、  Ts: 時刻(中央標準時) θ: 東経  φ: 北緯

高度(仰角): h
  h = asin(sin(φ)sin(δ) + cos(φ)cos(δ)cos(t))

方位角: A(北 = 0, 東 = 90, 南 = 180, 西 = 270°)
 sinA = cos(δ)sin(t)/cos(h)  cosA = (sin(h)sin(φ) - sin(δ))/cos(h)/cos(φ)
 A = atan2(sinA, cosA) + π

京都の場合は、  θ=  135.73  φ=  35.02

夏至、冬至、春分の日の太陽方位角と高度の経時変化についてプロットすると、
a0351692_23181544.jpg
確かに、京都における日の出の方位は、方位角60°から120°の範囲にピッタリと収まり、日の入りの方位は、方位角240°から300°の範囲にピッタリと収まる。

また、冬至日の出レイラインは 夏至日の入りレイラインに一致し、夏至日の出レイラインは冬至日の入りレイラインに一致する。


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by furutsuki_oto | 2017-10-29 23:31 | Comments(0)

円応寺 (北九州市)


円応寺 (北九州市)

件の皿倉(日枝)-中山ライン上に円応寺(えんおうじ)がある。所在地は 八幡西区上上津役5-13-5  「上上津役」は、「かみこうじゃく」と読む。

上津役(こうじゃく)は、奈良時代に律令で定められた駅(うまや)制度の駅で、中央と地方への命令、地方からの報告など連絡のために置かれた。平安時代、ここは役之郷と呼ばれ、役之郷がのちに上津役郷となりました。上津役は、古代から要所だったようです。

上上津役の円応寺近くに金山があり、そこからの湧水を水源とする金山川(きんざんがわ)が流れています。黒田長政も入国後に開発を継承しました。駅であるまえに鉱山だったのですね。また、上津役のすぐ近くの永犬丸西町の住宅地の一角で、タタラ吹き製鉄炉を持つ古代の製鉄跡、また古墳時代に使われた須恵器の窯跡の丸ヶ谷遺跡が発見されています。鉱山拠点としてはとても古いものであると想像できます。

実は、ラインを延長していくと、もうひとつの円応寺があります。小倉圓應寺とも呼ばれます。所在地は、 小倉北区清水4-5-2

ここは、香月氏と縁が深いようで、香月世譜を記した香月牛山(1656~1740)の墓があります。豊前中津藩に医官として仕えた人です。香月牛山の墓碑は、前述(山上宮周辺)の吉祥寺(北九州市八幡西区)境内にもあります。皿倉(日枝)-中山ライン自体が、鉱山と香月氏とに深くかかわるようです。

蛇足ですが、小倉圓應寺から1.5km東に黄金の地名が、2km東に宇佐町と中津口の地名があります。圓應寺は黒田家が拠点を遷した大分県中津市、福岡市中央区にもそれぞれあります。

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by furutsuki_oto | 2017-02-26 17:42 | Comments(0)

片野物部 4 津山 中山神社

片野物部 4 津山 中山神社

岡山県津山市一宮に、美作國(みまさかのくに)一の宮として崇敬を集める中山神社(なかやまじんじゃ)があります。主祭神は、「鏡作神」。

ただし、中山神社がまとめた大正時代の「中山神社資料」だと、主神は「金山彦命(かなやまひこ)」となっています。更に古く『延喜式頭注』では大己貴命(おおむなち)が祭神となっています。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』では、中山神社の神は猿神とされています。そのためか、現在は、中山神社の摂社に 国司神社(大己貴神)、御先神社(稲荷神)、猿神社(猿多彦神) が祀られています。

社伝にこんな話があります。「当地には古く大己貴命が鎮座していたが、中山神に宮所を譲ったところ、以前から大己貴命を奉じていた伽多野部長者乙丸が、それを不満に思った。これに怒った中山神の眷属・贄賄梧狼神(梧は実際には獣偏)が乙丸に祟ったので、乙丸は毎年二頭の鹿を供えることにした。贄賄梧狼神はこれを許し、牛馬市を開かせた。その後、乙丸は弓削庄に退いた。」

この伽多野部長者乙丸の屋敷地のあった場所が、後に美作国一宮である中山神社となったというのです。話の筋から中山神社創建の707年頃のことのようです。(『久米郡誌』によれば、和銅六年(713)のことだそうです。)

707年といえば元明天皇即位の年でしたか。胸形君徳善の孫の高市皇子が太政大臣になったのが持統4年(690年)ですから、その少しあと。伽多野部長者乙丸は、『中山神社縁由』や『作陽誌』では、肩野物部乙麿として出てきます。

津山市から岡山県北部(旧・建部町)の製鉄遺跡が数多くみられます。いずれも岡山県の東部を流れる吉井川水系にあります。伽多野部長者は、その名前が示すとおり河内國肩野郡にいた片野物部と同族のようです。出雲から移ってきたものか、河内國肩野からかは定かではありません。中山神社周辺では大蔵池南製鉄遺跡のすぐそばに、肩野物部氏のものと伝える長者屋敷地や、そこから西にある善福寺の成立として、肩野物部氏の妻の建立による尼寺であると伝えています。ここが本来の「吉備の中山」とする説もあります。

まーりんさんが教えてくれた儺の星の国拾遺の一文、「鍛冶場を交野(かたの)という。”かたの”とは砂礫が白く連なる河原であり、昔は”あまのかわ”であった。砂鉄の火花がさけ散るところである。」という意味を改めて見直しました。

それにしても「物部」氏と「中山」地名はセットでよく出てきます。「ナカヤマ地形」とでもいうべきものがあって、産鉄地帯となっている山と山の中間地帯をいうようです。

ところで、中山神社に稲穂を奉納する役目の半分は有木氏が務めたのだそうです。「有木」これも見た覚えが・・鞍手郡に有木郷というのがありました。現 宮若市に上有木・中有木・下有木という地名が残っています。南に望む甘南備山が饒速日尊が筑紫に降臨したという笠置山です。

中山神社がある一の宮地区の水源「黒沢山」の山頂には和銅七年創建と伝わる万福寺があります。創建以来、虚空蔵菩薩を本尊としているそうです。

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by furutsuki_oto | 2016-12-12 23:00 | Comments(2)

笠岡 七面神社

笠岡 七面神社

いったい何に呼ばれたものか、不思議なことが続いている。
椿の花弁様の渦巻模様の3つめの事例を見つけてしまいました。

場所は、笠岡市神島(こうのしま) 七面神社です。
椿の花弁様の渦巻模様が確認できます。
a0351692_23021383.jpg

瓦紋はやはりこれです。
a0351692_23022153.jpg

扁額の周りにも花弁様の渦巻。
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七面宮それ自体は名前からして鎌倉時代以降の祭祀のようなのですが、周りを見渡してビックリです。

ここは、神武東遷の折、八年間滞在し軍備を整えたという伝説の場所。より詳細にいうと、神日本磐余彦尊が滞在した所は隣の高島の王泊(おうどまり)と伝わっているのですが、神島(こうのしま)の外浦には吉備國の行館(かりみや)であったという「神島神社」がありました。

神島神社のご祭神は神日本磐余彦命(神武天皇)と興世姫命。そこは皇后興世姫尊(おきよひめ)が住まわれた宮であり、神日本磐余彦尊の行宮(あんぐう)「高嶋宮」だったそうです。 興世姫尊は記紀には記載がないお方です。寛平年間(889-898)に菅原道真公が神島神社の調査に来て、神島神社は延喜式内社に列せられました。

そして、もうひとつビックリ。高島の島民の家から耳形柄頭長剣という青銅剣が発見されて、高島おきよ館に展示されている。イランのタリシュ地方でみられる3000 年前の古代ペルシャの剣と同様のもののようだという。件の耳形柄頭長剣は高島まで秦氏の渡来物として運ばれたものであろうと推定されている。

神倭伊波礼毘古命にまつわる謎を抱えていたのだが、なんかヒントをいただいたようだ。


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by furutsuki_oto | 2016-12-11 23:16 | Comments(1)

丹波の出雲

丹波の出雲

京都に隣接する丹波(亀岡盆地)には、丹の湖の伝説があります。丹波は大昔は「丹の湖(にのうみ)」といわれた赤土の泥湖で、松尾大神(大山咋命)が保津峡を切り開いて丹波の水を流し、丹波を肥沃な盆地に変えたというものです。「丹波」の地名も「風が吹くと湖に丹色(朱色)の波が立った様子」に由来するとする説もあります。

京都の観光客にトロッコ列車や保津川下りで知られる「保津峡」ですが、実はそこが亀岡盆地唯一の流出口となっています。他に丹波盆地の外へ流れ出る川はありません。伝承では、その保津峡がそもそも人工河川だという驚きの内容です。

亀岡の「請田神社」に残る伝承は次のようなものです。松尾大神は、葛野(京都)干拓より前にまず丹波を拓いたといいます。最初単独で鍬を入れ始めたが難渋し、胸形神が大国主(大物主)を呼んできた。大国主は現地を見て「請けた」といったので、以後協力して開削を進めたという内容です。
なお、請田神社の祭神は 大山咋神と市杵島姫命です。大山咋神は出雲からやってきた神とされます。大山咋命と大国主命はそれぞれは鋤・鍬をとり並んで丹波開拓に励みました。

大国主が保津峡の開削を請け負ったこの地に創祀されたのが丹波国亀岡の「請田神社」なのだそうですが、請田神社の創祀は709年と伝わっています。現在、請田神社は亀岡を代表する産土(うぶすな)で、周囲には秦氏、出雲氏にゆかりの神社が点在しています。また、「保津」の地名は大国主(大物主)の后、三穂津姫命に由来するともいわれています。

亀岡盆地は、地質学的にも鮮新世・更新世頃まで標高280mほどの湖であったことがボーリング調査で確認されており、周辺の山体には一部平らになっている段丘地形も見られます。亀岡盆地が湖であったことは疑いようのない事実です。


その後、大国主の一族は、続々と丹波に移り住んできます。大井神社の伝承によれば、松尾神社に五人の出雲神のご兄弟がおられた(いずれも大国主の子とされます)。そのうちの御井神(木俣神)が市杵島姫命と一緒に洛西松尾大社から亀に乗って大井川(桂川)を遡上されたが、保津の急流が乗り切れなかったので、鯉に乗りかえて、ここ大井に上陸して鎮座された。

亀岡市千歳町には元出雲といわれる「出雲大神宮」があり、大国主命は、三穂津姫命と共にここに祀られています。出雲大神宮では大国主命の別名を「三穂津彦大神」や「御蔭大神」としています。出雲大神宮の周辺には西山断層が通っており、御影石も採れます。

徒然草の第二百三十六段に「丹波に出雲と云ふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。~」とありますが、出雲大神宮が、その丹波の出雲です。高校生の頃に国語で習った方もいらっしゃるかと思います。

出雲大神宮は、奈良時代の和銅元年(708)に大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそんこままろ)が丹波国司に着任し、その翌年(709)に社殿を建立したとされています。

大国主の一族がどこから遷ってきたのかは明言されていません。三穂津姫命を伴っていることと、「国譲りの所以で坐す」と伝わっていることから、素直に受け取れば、豊葦原中国を譲った後ということは分かるのですが、国譲りした豊葦原中国から直接来たのか、何か所か経由してからなのかは不明です。

ただ、丹波より前の「出雲」は島根県ではないようです。島根県出雲市のいわゆる出雲大社は明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲神社」と言えば出雲大神宮を指していたといいます。(出雲市は、江戸時代までは「出東郡」でした。明治以後に「出雲郡」に名称変更しています。また、出雲大神宮の社伝によると、和銅年中に大国主の一柱のみを分霊し島根の杵築宮に遷したとしています。)

私説では、丹波より前の元の出雲は、遠賀川水系であろうと思います。



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by furutsuki_oto | 2016-02-28 15:13 | Comments(3)

六嶽周辺の五芒星 6  宮田倉久

六嶽周辺の五芒星 6
宮田倉久

六嶽周辺の五芒星の中でも大きなものを順に紹介していっている。
今回は、宮田(現 宮若市の一部)の倉久周辺の五芒星である。


ここは、ほぼほぼゴルフ場と工場になってしまった。
五芒星に直接のってくる神社は少ないが、特異な角度の道路や
変則的な交差点の様子、また周囲の神社配置との関係から
五芒星が浮かび上がる。

笠松神社は、工場建設の頃に遷座したように聞いている。
町道上倉線(上有木~倉久)の改良工事にともない移転した。
(間違っていたらご指摘ください)

もとの道は、神功道である。神功皇后が笠をかけたという伝承がある。
また、貝原益軒著の「鞍手郡磯光神社縁起」によれば、
饒速日尊が垂仁天皇16年に宮田町の南に聳える笠置山頂(425m)に
降臨したという。

倉久集落の裏手の山が気になる。


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by furutsuki_oto | 2016-02-04 01:41 | Comments(0)
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古月 乙彦 のブログ  神社とか星とか 古代のロマン.    Since 2016.1.22


by 古月 乙彦(ふるつき おとひこ)
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