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宗像三女神と賀茂の関係


宗像三女神と賀茂の関係

宗像三女神は、筑紫と山背の両方で信仰されています。宗像三女神に関する伝承は、筑紫においてより厚く広く感じます。しかし大国主との関係においていつも混乱するので、少しずつ 系図をまとめていました。

神倭伊波礼毘古命の母の玉依姫命と、賀茂別雷神の母の玉依姫が同じ方なのかどうかまだ悩んでいたのもあります。別の方であるとしてみると、こんな系図になりました。

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ツッコミどころ満載なのは承知です。異説がいろいろあって唯一に決まらないところは都合の良い方を採りました。仮説として、饒速日=三島溝杭耳命 説を採っています。

とりあえず、大国主は複数います。大物主も複数います。いずれも地位と職責を表す名前との解釈です。
八重事代主と都味歯八重事代主も別の方と解釈しました。
古月の今段階のひとつの解釈です。

この図をみると、深草宝塔寺七面堂の七面大明神と賀茂御祖神社の関係も一目で納得できます。(古月のおと『深草 七面山』参照)

しかし、よく言われるように瀬織津比売命が天甕津日女だとすると、赤衾伊努意保須美比古佐和気能命 がなんか凄いことになってしまうのですが・・・構わず先に進むことにします。

系図を見ると、神倭伊波礼毘古命に東の地を薦めた塩土老翁、塩治比古命のことだとしたら、伊波礼毘古の甥ではないですか !? イメージ崩壊しました。


また、饒速日命の孫娘の婿が神武で、神武の岳父が事代主になります。国譲りから神武東遷まで、せいぜい30年~50年くらいだったのかも・・・なんてことになるんですが・・・

この婚姻関係から、意保須美比古は瀬戸内航路を開いて実質支配していたようにみえます。でもって、新北物部(阿刀氏の祖 饒田命)が神武東征に随行していますから、饒田命は爺っちゃんの里で育ったことになります。筑紫と摂津を結ぶ瀬戸内航路の両端のターミナル港を住吉一族でおさえていたわけです。


さて、『摂津の「高月」』で書いたことを引用しますが、物部氏(ここでは物部長者の家系のこと)の祖といわれる宇摩志麻遅命(宇摩志麻治とも書く)は、神武東征の時に功あり、三島溝咋が治めていた土地を与えられています。宇摩志麻治の旗印が月だったこと、天月弓杜(あめのつきゆみのやしろ)を祀ったことから一帯は高月(たかつき)と呼ばれるよになり、のちに字が変わり高槻と書くようになったと伝わっています。また、淀川の三島の津は筑紫津と呼ばれるようになりました(現存しています)。事代主と三島溝杭耳命(みしまのみぞくいみみのみこと)の娘・玉櫛媛の間にできた娘・媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)が、神武天皇の皇后になりました。

ここで、上の系図をみてみると、饒速日=三島溝杭耳命=意保須美比古が拓いた摂津の三島の筑紫津と瀬戸内航路の利権を巡って饒速日の子らの間に反目があったようにみえます。丹波出身の伊可古夜比売命(伊賀古夜日売とも)が生んだ子 がいたであろう三島が磯城(大和)の登美夜毘売の子に譲られた形になっていています。また、三島(高槻)の地はオリオンの三ツ星信仰から月信仰に塗り替わりました。 追い出された者たちは、筑紫の大国主(大穴持)と国替えになり、国を譲った事代主とその子らが山背・桑田(南丹)の開拓にまわったように見えます。まったくの私見ですが、これが真相だとしたら衝撃です。

高槻からみて淀川の対岸の枚方・交野一帯は、宇摩志麻治から六代目の伊香色雄が開拓しました(いつのまにか丹波系の「伊香」になっていますね)。磯城(今の天理市、橿原市、桜井市、宇陀市のそれぞれの一部に跨る辺り)の開拓もこの一派になります(蛇足ですが、旧 磯城郡のうちの桜井市に登美の地名があります。)。 

宇摩志麻治の異母妹に伊香色謎(いかがしこめ)命がおり、8代孝元天皇の妃となり、後に9代開化天皇の皇后となり、10代崇神天皇の母となります。伊香色謎の子孫は、伊香色謎―彦太忍信―屋主忍男武雄心―武内宿禰―葛城襲津彦―磐之姫(16代仁徳天皇の皇后)と続き、物部氏は天皇家との関係を密にして大躍進することになります。

ところで、宗像市赤間の八所宮と遠賀郡岡垣町(崗の湊)の高倉神社の伊賀さんは、神功皇后の三韓征伐の折に磯城の兎田(宇陀)からやってきた伊賀彦命の末と伝わっていますが、冶金や最新大型帆船技術にかかわる物部さんだったんでしょうね、きっと。 

伊賀彦命の母 弟橘媛は山代玖々麻毛理比売か(意味は、山代の栗隈の守の娘の意か。山代の栗隈は、和名抄にみえる山城国久世郡栗隈郷、現在の京都府宇治市大久保周辺であるようです)。 弟橘媛は穗積臣等之祖建忍山垂根の娘ともあります。穗は火に通じ、穗積は物部の正統とも。なんとなく見えてきた気がします。

つまりは結論として、鞍手・宗像の物部と、交野・磯城の物部は、どちらが先かではなく、航路の両ターミナルに同時発生したことになります。その両方の地に七夕伝説の神社があるのも定期航路の存在を伺わせます。

やがて穂積、安曇(阿積)、出雲積、津積(尾張氏)、鰐積、鴨積などに分かれ、さらに時代が下るとともに、まつろう内物部と まつろわぬ外物部が対立してしまったようです。 やはり母系をみていかないといけないんでしょうなぁ。

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by furutsuki_oto | 2017-02-10 00:05 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)
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