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赤い龍

赤い龍

700年頃、大和朝廷は本格的に全国の鉱山・屯倉の経営にのりだす。
いったい何がそれを可能にしたのか見ていきたい。

唐の顕慶四年(659年)高宗の勅で李勣・蘇敬らにより世界初の薬局方である『新修本草』が上奏された。京都の仁和寺に天平三年(731年)の古写本残巻がある。
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金、銀、水銀、硫黄などの精錬法も記されている。大宝元年(701)の少し前に日本にも伝わったのではなかろうか。日本では大宝元年より金・銀・銅の鉱山開発が盛んに行われるようになる。

水銀について『新修本草』に次のような記載がある。「丹砂より出ずる者は、今は麁末なる朱砂を焼きて得らるるなり。色はすこしく白濁し、生なるもの(自然水銀)には及ばず。甚だ能く金銀を消化し、そのまま泥と化す。」とある。

泥になるというのは、現代の言葉でいうとアマルガムとなるということである。この一文は、現在の黄金アマルガム法といわれる湿式治金法に等しい。この方法により、砂金によらずとも屑鉱石から金や銅をとりだすことができるようになった。

丹砂は硫化水銀である。朱砂、辰砂ともよばれる。
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それを400~600 ℃ に熱すると水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じる。この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製する。水銀は、金や銅などを常温で溶かし込んで合金(アマルガム)をつくる。青銅などにこのアマルガムを塗り付けて熱すると金メッキができる。

『新修本草』に記載あるものは水銀アマルガムである。生なるもの、すなわち丹生は水銀、純水銀である。辰砂の鉱脈が赤龍か。
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698年(文武二年) 因幡および周防の二国は銅鉱を伊予国は白鉛鉱および朱砂を献ぜり[続日本紀]
701年(大宝元年) 鉄の採掘はこれを公許とせらる[続日本紀]
703年(大宝三年) 紀伊国阿提、飯高牢漏三郡より銀を貢せり[続日本紀]
709年(和銅二年) 銀銭を製して、銅銭と共に流通せしめられたり[続日本紀]
710年(和銅三年) 平城京遷都
713年(和銅六年) 伊勢多気郡丹生水銀山は水銀を出せり[続日本紀]
714年(天平十五年) 奈良東大寺の盧舎那仏金銅像の鋳造に着手せり[続日本紀]

このころ日本の冶金は地金を輸入する形から自前精錬に切り替わり、朝廷の号令をもって鉱山技術者を各地に入植させ鉱山開発に邁進するという産業革命があったようだ。奈良東大寺の虞舎那仏像(奈良の大仏)の建造の際には、熟銅73万7560斤(500トン弱)とともに、メッキ用に金1万436両(0.4トン)、水銀5万8620両(2.5トン)、さらに水銀気化用に木炭1万6656斛が調達されている。

古代にはほぼ丹生氏だけが錬丹術を伝えていたのが、秦氏は新しい水銀精錬・水銀鍍金の術をもって辰砂と水銀の利用の新たな主役となっていったようだ。

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by furutsuki_oto | 2016-12-17 16:46 | 摂津・山背・亀岡
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