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秦氏

秦氏


 山背葛野(やましろかどの)を発展させ平安京の準備を実質的に進めた秦氏とは何者だろうか。秦氏には謎が多い。「新撰姓氏録」で、秦氏が秦の始皇帝の末裔を主張しているが、他にこれを裏付ける記事はない。

 「魏志倭人伝」には、「秦の苦役から逃れた民が馬韓(紀元前2世紀末~4世紀)へ亡命し、その東方に居住したのが馬韓人の始まりであるという旨の記述があるが秦氏との直接の繋がりは明らかではない。しかし、秦氏が大陸からの帰化人であることは疑いなく、帰化の経緯は『日本書紀』によれば、
・まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。
・弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、
・葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。
・しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。
・そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
という次第であったという。

 彼らはまず豊前に入ったようだ。「正倉院文書」に大宝2年(702)豊前の戸籍の木簡が残っている。

○仲津郡丁里(行橋の一部、豊津、犀川に当たる)秦部  239戸、丁 勝(かつ) 51戸、狭度勝(さわたり・かつ) 45戸、川辺勝 33戸、古溝勝 15戸、大屋勝 10、高屋勝 3戸、阿射彌勝 1戸、黒田勝 1戸、門勝 1戸、田部勝 1戸、物部 4戸、車持部 3戸 、鴨部 3戸、大神部2戸、日奉部 2戸、宗形部 2戸、難波部 2戸、矢作部 1戸、中臣部 1戸 膳臣1戸、津守 1戸、呂部 1戸、建部 1戸、 錦織部 1戸、高桑部 1戸、生部 1戸、春日部 1戸、刑部 1戸、無姓 49戸、不詳 2戸。
○上三毛郡塔里(とうのさと)(唐村のある大平村=旧上毛町あたり)秦部66戸、塔勝 49戸、強勝 1戸、調勝 1戸、梢勝 1戸、楢勝 1戸、難波部 2戸、海部 1戸、物部 1戸、膳大伴部 1部。○上三毛郡加自久也里(かしきえのさと?)(築上町あたりか)秦部 26戸、河部勝 16戸、上屋勝 13戸、膳大伴部 4戸、飛鳥部 4戸、刑部 1戸、膳部 1戸、浴部 1戸、無性 7戸。」
(すべての戸主名から一歳の緑児まですべての家族の全記録付記。)
・・・

 ここで、「勝=かつ」 とは秦氏の族長の呼称であるようだ。

 こうした記録と6世紀末の遺跡・古墳群の発掘から、豊前に秦氏が最初に入ったことは間違いないと思われる。

 秦氏は、土木、養蚕、発酵技術をもつ集団であるうえに、田川郡香春や山口県で銅山開発にあたった鉱山開発・冶金技術をもった集団でもあった。

 秦氏の豊前入植は少なくとも6世紀までにあった。山背秦氏の記録が秦河勝・聖徳太子の6世紀であるから、4、5世紀までに豊前に定着していた豊前秦氏が、6世紀頃に山口県や讃岐を経てさらに東へ移動したと思われる。移動してきたという内容は、山背(桑田・葛野)の数々の伝承や古墳が造営された時期にもあっている。

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by furutsuki_oto | 2016-09-22 20:27 | 摂津・山背・亀岡
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