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摂津の「牟禮」

摂津の「牟禮」

日本書記によれば、事代主と三島溝杭耳命(みしまのみぞくいみみのみこと)の娘・玉櫛媛の間にできた娘・媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)が、神武天皇の皇后になりました。

古事記では、大物主が勢夜陀多良比売(玉櫛媛)に一目惚れして産ませたのが富登多多良伊須岐比売(媛蹈鞴五十鈴媛)となっています。

三島溝杭耳命を祀る溝咋神社(茨木市五十鈴町)にもほど近いところ、阪急茨木市駅より北東へ徒歩10分に御子大中津日子命を祀る 牟禮神社(むれじんじゃ) があります。牟禮神社は、延喜式神名帳に摂津国島下郡 牟礼神社とある式内社です。

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摂津国島下郡は、律令時代の摂津国三嶋郡より分かれたもので、ここは、三島溝杭耳命の拓いた溝杭庄の内です(平安時代末期まで後白河院領溝杭庄として存続していました)。

古事記の垂仁記に「御子大中津日子命者牟礼之別祖也」とあり、牟禮神社は、この地に住んだ牟礼の一族が信仰した社であると伝わっています。また、山口県佐波郡牟礼に住んだ「垂仁天皇皇子」の飛び地だといいます。

大中津日子命(おおなかつひこのみこと)は、垂仁天皇(活目入彦;いくめいりひこ)の皇子であり、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の弟、大足彦尊(おおたらしひこのみこと;景行天皇)の兄です。

ちょっと驚きました。「いり」「おほ」「たらし」の三系統が兄弟になっています。大中津日子命には、父方に開化天皇と大彦命の血が入っています。また母方に彦坐王の血が入っています。


この媛蹈鞴五十鈴媛の父の事代主は、明確には分かりませんが「おほ」の血脈のはずです(大物主・事代主は地位を表し何世代か居るという前提です)。道臣命か可美真手命か、はたまたその後の世代か。


さて、少し話が飛びます。

1985年の茨木市牟礼遺跡の調査で、(遠賀川式土器を伴わない)突帯文土器と水田址が一緒に出土し、すわ縄文時代に水田稲作かと当時大きな話題になりました。というのも、従来、水田稲作は遠賀川式土器を使用する集団に限ってみられたので、これら遠賀川式土器を使用する集団の東遷により水田稲作が広がったと考えられていたからだそうです。

ちなみに、北部九州の水田は BC3000年~BC2800の突帯文土器文化期に遡ります。ただし、いつも遠賀川式土器の使用を伴っていました。北部九州では突帯文土器文化期と遠賀川式土器の使用と水田稲作址が重なります。

その後の国立歴史民俗博物館(歴博)によるC14年代調査などで茨木市牟礼遺跡の突帯文土器と水田址は、BC830年~BC750年の弥生時代初期のものと判明しました。 すなわち、弥生時代早期に遠賀川式土器を伴わない突帯文土器を使う一団が、茨木市牟礼地区で水田稲作をしていたのです。

更にその後、北西部九州でも遠賀川式土器を伴わない突帯文土器の一団が遠賀川式土器を伴う一団と比べても遜色ない水田稲作を行っていたことが判明し、そのうえ北西部九州に集中するゴホウラガイ貝輪に直孤文を描かれた呪物が摂津で出土するなどあって、摂津三嶋地域(茨木市市街部あたりから島本町)の水田稲作は、遠賀川式土器を使用しない一団の東遷によってもたらされたと考えられるようになりました。

葦原中国を去った少名毘古那命と三嶋溝咋は同神という説がありますが、茨木市牟礼遺跡は、記紀における摂津の先住者・三嶋溝咋の話が考古学的結果に対応しているとても興味深い一件です。

国譲り後の大物主は、縁を頼って溝杭庄に入ったのでしょうか。

牟礼遺跡近く(高槻市津之江町)には筑紫津神社があります。(摂津の)淀川の三島の津といわれていたところです。

なお、三島の名は、オリオン座の三ツ星を地上に映したものだそうです。前島・中島・向島かな。これは古代豪族のご子孫さんから伺いました。


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by furutsuki_oto | 2016-03-29 22:50 | 摂津・山背
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by 古月 乙彦(ふるつき おとひこ)
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