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将軍塚


将軍塚

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 東山粟田口の将軍塚にのぼってきました。写真は、将軍塚青龍殿の大舞台から「糺の森」(ただすのもり) を望む構図です。賀茂川がまっすぐに将軍塚の方へ流れてきています。高野川と合流してのち南方向へ流れが変わり鴨川となります。賀茂川と高野川の合流地点のすぐ北が下鴨神社です。下鴨神社より上流の賀茂川は水気三合の辺に沿っていることが改めて確認できました。(「火気三合からみた平安京」参照)

 将軍塚は、和気清麻呂が山部王(桓武天皇)をこの山上にお誘いし、京都盆地(山背国葛野郡宇太村)を見下ろしながら都の場所にふさわしい旨進言したと伝わる場所です。山部王(桓武天皇)は和気清麻呂の勧めに従って延暦十三年(794年)平安建都に着手されました。そして、平安京遷都後に桓武天皇は「山背」の呼び名を「山城」に変えました。

※山部王の母は、和乙継(やまとのおとつぐ)と土師真妹(はじのまいも)の娘・高野新笠(たかののにいがさ)。父は天智天皇の孫の光仁天皇。和氏は百済武寧王の子孫を称する渡来系氏族で、もとの氏姓は和史(やまとのふひと)。高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、光仁天皇の即位後に賜姓されたもの。「高野」は地名で、現在の「高の原」あたり。神功陵古墳がある。高野近傍には土師氏の根拠地である菅原伏見、また秋篠がある。

 平安京造営時に平安京の大内裏を含む土地や多くの私財を献上した陰の立役者が秦氏です。「日本書紀」には、応神14年に功満王の息子で融通王とも呼ばれる弓月君が、百済から127県の民を率いて帰化し、秦氏の基となったことが明記されています。その後、雄略天皇の時代(5世紀)に秦部92部から成る18,670人、さらに6世紀には少なくとも7,053戸、数万人規模で移民してきています。秦氏が大陸より携えてきた文化は極めて高度なものであり、大規模な灌漑や土木工事、古墳の造営等にも着手し、特に山背国と呼ばれた京都盆地の開発と発展に大きく貢献しました。


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# by furutsuki_oto | 2017-04-02 15:55 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

清凉寺のお松明


清凉寺のお松明

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昨日は、清涼寺(せいりょうじ)のお松明(おたいまつ)に行ってきました(今年は雨交じりだったので、写真は二年前に撮ったものです)。清凉寺のお松明は、京都の三大火祭りに数えられます。清凉寺は、通称 嵯峨釈迦堂といいます。もとは平安時代の貴族、源融(みなもとのとおる)の山荘だったところです。源融は、嵯峨天皇の皇子で、源氏物語の主人公 光源氏のモデルのひとりと言われる方です。 古代、この一帯は荒巣(あらす)と呼ばれていました。今、有栖川(ありすがわ)の名に一帯が「あらす」と呼ばれた名残りがあります。清凉寺境内の嵯峨薬師寺には、小野篁が閻魔大王に仕えて冥土と行き来していた際に帰りの出口だったという井戸もあります。

高さ7メートルのお松明が三基、これでもかとばかりに境内に置かれ、勢いよく燃え上がります。火勢が増すと、そこから更に7メートル程の炎が吹き上がります。壮観です。 お松明という行事には、ペルシャ時代のゾロアスター教の祭祀に類似した部分があります。ゾロアスター教では、大地の神の怒気が地上の人間の悪業を焼きつくす前兆がこの聖火です。この大地の神の名がサンスクリット語及びパーリ語でヤマ。仏教の閻魔、地蔵菩薩です。神仏習合のもとで地蔵菩薩の垂迹とされる神は、愛宕神や天児屋根命、大穴持命となります。

お松明の日には、嵯峨大念仏狂言もあります。いくつもの演目がありますが、まず最初に上演されるのが「土蜘蛛」です。源頼光や藤原保昌らの酒呑童子討伐・土蜘蛛退治の説話がもとになっています。同様の土蜘蛛退治の演目は、久世の蔵王堂の六斎念仏でも上演されます。同じ話を題材とする能の「大江山」では、頼光との酒宴の席での童子の語りの中に、「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とある。伝教大師というのは最澄のことです。

ところで脱線しますが、藤原保昌の奥さんが和泉式部です。和泉式部は佐賀県杵島の福泉寺の生まれで嬉野市あたりで育ったお方です。

それから福岡県の有数の古族、筑後の蒲池さんが源融のご子孫です。源融の末の源満末が肥前国神埼郡の鳥羽院領神埼庄の荘官として下り、次子(あるいは孫)の源久直が筑後国三潴郡の地頭として三潴郡蒲池に住み蒲池久直と名乗ったのが初めだそうです。


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# by furutsuki_oto | 2017-03-16 20:26 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

円応寺 (北九州市)


円応寺 (北九州市)

件の皿倉(日枝)-中山ライン上に円応寺(えんおうじ)がある。所在地は 八幡西区上上津役5-13-5  「上上津役」は、「かみこうじゃく」と読む。

上津役(こうじゃく)は、奈良時代に律令で定められた駅(うまや)制度の駅で、中央と地方への命令、地方からの報告など連絡のために置かれた。平安時代、ここは役之郷と呼ばれ、役之郷がのちに上津役郷となりました。上津役は、古代から要所だったようです。

上上津役の円応寺近くに金山があり、そこからの湧水を水源とする金山川(きんざんがわ)が流れています。黒田長政も入国後に開発を継承しました。駅であるまえに鉱山だったのですね。また、上津役のすぐ近くの永犬丸西町の住宅地の一角で、タタラ吹き製鉄炉を持つ古代の製鉄跡、また古墳時代に使われた須恵器の窯跡の丸ヶ谷遺跡が発見されています。鉱山拠点としてはとても古いものであると想像できます。

実は、ラインを延長していくと、もうひとつの円応寺があります。小倉圓應寺とも呼ばれます。所在地は、 小倉北区清水4-5-2

ここは、香月氏と縁が深いようで、香月世譜を記した香月牛山(1656~1740)の墓があります。豊前中津藩に医官として仕えた人です。香月牛山の墓碑は、前述(山上宮周辺)の吉祥寺(北九州市八幡西区)境内にもあります。皿倉(日枝)-中山ライン自体が、鉱山と香月氏とに深くかかわるようです。

蛇足ですが、小倉圓應寺から1.5km東に黄金の地名が、2km東に宇佐町と中津口の地名があります。圓應寺は黒田家が拠点を遷した大分県中津市、福岡市中央区にもそれぞれあります。

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# by furutsuki_oto | 2017-02-26 17:42 | Comments(0)

山神宮周辺(香月西)


山神宮周辺(香月西)

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皿倉-中山ライン上の神社・遺跡をみていっています。ここは八幡西区香月西の山上宮周辺です。斉明天皇が行宮をおいた岩瀬宮址の南東2.5km程のところです。

「山神宮」のご祭神は大山積神(おおやまづみのかみ)、鳥居には昭和9年11月3日建立とあります。今は廃墟のように荒れています。貝島太助が明治29年に開いた旧 大辻炭砿に関連して祀られたもののようです。なんだ新しいのかと思わないでください。ここには江戸時代すでに香月炭鉱がありました(香月や垣生の石炭は、江戸時代初期には知られていたようです。また、元禄3年(1690)オランダ東インド会社の エンゲルベルト・ケンペルが書いた『日本誌』で木屋瀬,黒崎の石炭が紹介されていたことが、シーボルトの『江戸参府紀行』に出ているそうです。)。 すぐ東に吉祥寺と吉祥寺公園があります。また目の前の光照寺一丁目で弥生時代の環濠集落址である「光照寺遺跡」が出土しています。

「光照寺遺跡」では竪穴式住居跡のほか、剣、土師器、瓦器、舶載青磁、白磁、石庖丁、小型内行花文倭製鏡、銅製鋤先などが出ました。弥生時代にすでに土師氏が居て採掘を行っていたようです。ここは古代から知られた古い鉱山だったのです。そうそう、土師氏の祀る吉祥天は七面天女=多紀理毘売でしたね。

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# by furutsuki_oto | 2017-02-19 11:32 | 鞍手・宗像 | Comments(0)

道中 松隈の 磐座


道中 松隈の 磐座

宗像大社社伝や鞍手の神話伝承では、三柱の女神は六嶽(むつがたけ)に降臨したといいます。日本書紀には「即以日神所生三女神者、使降居干葦原中国之宇佐嶋矣。今在海北道中。号曰道主貴」と記載があるのですが、鞍手では六嶽に降臨した三女神は、宇佐島、道中をへて400年くらいかけて赤間方面へと移動していき、今の宗像大社の場所に落ち着いたと伝える方もいます(あくまで聞いた話です)。宇佐島は六嶽の麓にかつてあった字で、いま宇佐寺があります。道中は、いま鞍手町に「道中交差点」というのがあるのですが、神崎の東から松隈・浪内あたりの細長い一帯のことも道中と地元の人々は呼びならわしています。鞍手町の剣岳の北の麓の中山の新橋から北が海中であったとき、ここが重要な交通路だったのだろうということです。

つづきがあります。私が中学生の頃(40年近く前)、鞍手で聞いた話では、三女神を祀る一派は分かれて到津荘のほうへもいったとも。小倉の香春口に近いところです。 さらに、私が高校生の頃、八幡にお住まいの宇佐一族の方から聞いた話では、到津より香春へ、そこから更に行橋、中津となんども遷宮してのち豊後の宇佐に落ち着いたとききました。中津の薦神社が宇佐神宮の元宮のひとつとも。こういう口伝はどこまで裏がとれているのでしょう。

ところで先ごろ、「松隈」は、宇佐宮の玄関口という話を知りました。宇佐託宣集によると、養老四年(七二〇)大隅・日向の隼人が反乱した際に八幡神自ら打ち取った隼人の首が埋められているということです。宇佐神宮の元宮の中津の薦神社の創建は承和年間(834-848年)だそうですが、そうすると、中津時代よりも更に前の宇佐社の脇にあった松隈の話なのかもしれません。そういえば、小学生の頃、鞍手の松隈の友人が武将の首が埋まっているという話をしていたのを聞いたことがありましたがその頃は何のことやらと聞き流していました。

しかし思い出したことがあります。 鞍手の道中の松隈・浪内に古月中学校がありましたが、その校庭には巨大な岩がありました。小学生がふざけて岩に乗ったらこっぴどく叱られてましたが、一度に五人ほど上っていたので、4~5メートルはあったろうと思います。最近、昔の航空写真にアクセスできるようになったので、確認できるかなと思って探してみたらありました。これです。

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赤丸で囲ったところに巨石がありました。当時、これは何かと教頭先生に尋ねましたら、学校を建てるまえからあった。三つほどあったが置いておけないので一部のみ残した。というような話でした。古月中学校は、丘のうえにありました。今思えば、古月中学校はちょっと変わった立地で、正門は急峻な石段(三十段以上四十段くらいはあったかと記憶)を上ったところにあり、大きな御影石の石柱門がありました。今ならわかります。この巨石は「磐座」だったのですね。今はもうありません。


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# by furutsuki_oto | 2017-02-14 00:18 | 鞍手・宗像 | Comments(0)
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古月 乙彦 のブログ  神社とか星とか 古代のロマン.    Since 2016.1.22


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