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太陽方位と高度の計算


太陽方位と高度の計算


京都における日の出方位と日の入り方位の範囲を確認しておきたいと思います。太陽の方位角と高度は、下記の計算式によって計算できます。

[ 計算式 ]
太陽赤緯: δ(太陽光線と地球の赤道面との角度、±23°27'の範囲で変化) [単位: 度]
  δ = 0.33281 - 22.984 cos(ωJ ) - 0.34990 cos(2ωJ ) - 0.13980cos(3ωJ )
    + 3.7872 sin(ωJ ) + 0.03250 sin(2ωJ ) + 0.07187 sin(3ωJ )
 ここで、  ω = 2π/365、閏年は ω = 2π/366、J: 元日からの通算日数 + 0.5

均時差: e(天球上を一定な速さで動くと考えた平均太陽と、実際の太陽との移動の差) [単位: 時間]
  e = 0.0072 cos(ωJ ) - 0.0528 cos(2ωJ ) - 0.0012 cos(3ωJ )
    - 0.1229 sin(ωJ ) - 0.1565 sin(2ωJ ) - 0.0041 sin(3ωJ )

  * 均時差の解説 は、Wikipedia参照。

時角: t [単位: 度]
  T = Ts + (θ - 135)/15 + e  t = 15T - 180
 ここで、  Ts: 時刻(中央標準時) θ: 東経  φ: 北緯

高度(仰角): h
  h = asin(sin(φ)sin(δ) + cos(φ)cos(δ)cos(t))

方位角: A(北 = 0, 東 = 90, 南 = 180, 西 = 270°)
 sinA = cos(δ)sin(t)/cos(h)  cosA = (sin(h)sin(φ) - sin(δ))/cos(h)/cos(φ)
 A = atan2(sinA, cosA) + π

京都の場合は、  θ=  135.73  φ=  35.02

夏至、冬至、春分の日の太陽方位角と高度の経時変化についてプロットすると、
a0351692_23181544.jpg
確かに、京都における日の出の方位は、方位角60°から120°の範囲にピッタリと収まり、日の入りの方位は、方位角240°から300°の範囲にピッタリと収まる。

また、冬至日の出レイラインは 夏至日の入りレイラインに一致し、夏至日の出レイラインは冬至日の入りレイラインに一致する。


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# by furutsuki_oto | 2017-10-29 23:31 | Comments(0)

十二神将


十二神将


久しぶりに 夢を見ました。 「十二神将」だそうです。

十二神将? 奈良の新薬師寺の十二神将なら有名だし、何度か見に行ったことがあります。

でも京都だそうです。  調べてみたら「東寺」にありました。

a0351692_01470845.jpg

六角形の台の上に、輪になって並んでいるようです。

東寺、空海ゆかりのお寺ですね。東寺の十二神将は、桃山時代のものだそうです。
もうひとつ、広隆寺にもありました。こちらは、平安時代のものだとか。

そういえば、松尾山を頂点とする東に開いた正三角形と、朱雀(すざく)を頂点とする北に開いた正三角形が、比叡の神蔵山を共有していました。 

a0351692_01521409.jpg



ん? 正方形の四辺にそれぞれ正三角形の一辺が重なるように 四つの正三角形を重ねると、十二の交点が円形に並んで浮かびます。そんな 算額 を見たことある気がします。

a0351692_01525274.jpg
この形を地図に当てはめてみます。
朱雀を頂点とすると、三角形の大きさが微妙にことなります。
形優先で かまわず 地図と重ねると、頂点こそ朱雀ではありませんが、
寺がいくつも図形の特徴点に載ってきます。

a0351692_21231139.jpg
下向きの三角形の頂点が城南宮になっています。
そんな三角形があるとも聞いたことがありました。
主要な交点に有名どころの社寺がビタっとのってきます。

六角形の中に、十二の印、その中に八法輪が浮かびました。
広隆寺も十二の印のひとつになっていますね。


おや、龍安寺 や 下鴨神社 も 六角形の辺の中点方位にのってきますね。

結界のようです。 中心から見て真東 は、八坂神社です。
そういえば、八坂神社の三基の神輿は、八角形と六角形と四角形でしたね。ヒントは至るところにあったのですね。

中心は、「元祇園(もとぎおん)」とも云われ、現在の八坂神社の古址にあたります。今そこには「梛神社(なぎじんじゃ)」があります。もともと祇園社は「牛頭天王(ごずてんのう)」を祀り仏教的なものでした。

ちなみに、蔵王堂(ざおうどう)は、祇園祭の馬形稚児を出す國中神社(くなかじんじゃ)の旧地です。
城南宮(じょうなんぐう)は、この地にあった式内社・真幡寸神社(まはたぎじんじゃ)に桓武天皇の平安京遷都のさい、京城の南を擁護する神として国常立尊を併祀、京城の南ゆえ城南宮を称したとのこと。

神社やお寺で、斜めに傾いた 正三角形や二等辺三角形の配置を見つけたら、それを囲む 六角形や 四角形を探してみると面白いかも。

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# by furutsuki_oto | 2017-09-27 07:21 | 幾何学 | Comments(3)

将軍塚


将軍塚

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 東山粟田口の将軍塚にのぼってきました。写真は、将軍塚青龍殿の大舞台から「糺の森」(ただすのもり) を望む構図です。賀茂川がまっすぐに将軍塚の方へ流れてきています。高野川と合流してのち南方向へ流れが変わり鴨川となります。賀茂川と高野川の合流地点のすぐ北が下鴨神社です。下鴨神社より上流の賀茂川は水気三合の辺に沿っていることが改めて確認できました。(「火気三合からみた平安京」参照)

 将軍塚は、和気清麻呂が山部王(桓武天皇)をこの山上にお誘いし、京都盆地(山背国葛野郡宇太村)を見下ろしながら都の場所にふさわしい旨進言したと伝わる場所です。山部王(桓武天皇)は和気清麻呂の勧めに従って延暦十三年(794年)平安建都に着手されました。そして、平安京遷都後に桓武天皇は「山背」の呼び名を「山城」に変えました。

※山部王の母は、和乙継(やまとのおとつぐ)と土師真妹(はじのまいも)の娘・高野新笠(たかののにいがさ)。父は天智天皇の孫の光仁天皇。和氏は百済武寧王の子孫を称する渡来系氏族で、もとの氏姓は和史(やまとのふひと)。高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、光仁天皇の即位後に賜姓されたもの。「高野」は地名で、現在の「高の原」あたり。神功陵古墳がある。高野近傍には土師氏の根拠地である菅原伏見、また秋篠がある。

 平安京造営時に平安京の大内裏を含む土地や多くの私財を献上した陰の立役者が秦氏です。「日本書紀」には、応神14年に功満王の息子で融通王とも呼ばれる弓月君が、百済から127県の民を率いて帰化し、秦氏の基となったことが明記されています。その後、雄略天皇の時代(5世紀)に秦部92部から成る18,670人、さらに6世紀には少なくとも7,053戸、数万人規模で移民してきています。秦氏が大陸より携えてきた文化は極めて高度なものであり、大規模な灌漑や土木工事、古墳の造営等にも着手し、特に山背国と呼ばれた京都盆地の開発と発展に大きく貢献しました。


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# by furutsuki_oto | 2017-04-02 15:55 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

清凉寺のお松明


清凉寺のお松明

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昨日は、清涼寺(せいりょうじ)のお松明(おたいまつ)に行ってきました(今年は雨交じりだったので、写真は二年前に撮ったものです)。清凉寺のお松明は、京都の三大火祭りに数えられます。清凉寺は、通称 嵯峨釈迦堂といいます。もとは平安時代の貴族、源融(みなもとのとおる)の山荘だったところです。源融は、嵯峨天皇の皇子で、源氏物語の主人公 光源氏のモデルのひとりと言われる方です。 古代、この一帯は荒巣(あらす)と呼ばれていました。今、有栖川(ありすがわ)の名に一帯が「あらす」と呼ばれた名残りがあります。清凉寺境内の嵯峨薬師寺には、小野篁が閻魔大王に仕えて冥土と行き来していた際に帰りの出口だったという井戸もあります。

高さ7メートルのお松明が三基、これでもかとばかりに境内に置かれ、勢いよく燃え上がります。火勢が増すと、そこから更に7メートル程の炎が吹き上がります。壮観です。 お松明という行事には、ペルシャ時代のゾロアスター教の祭祀に類似した部分があります。ゾロアスター教では、大地の神の怒気が地上の人間の悪業を焼きつくす前兆がこの聖火です。この大地の神の名がサンスクリット語及びパーリ語でヤマ。仏教の閻魔、地蔵菩薩です。神仏習合のもとで地蔵菩薩の垂迹とされる神は、愛宕神や天児屋根命、大穴持命となります。

お松明の日には、嵯峨大念仏狂言もあります。いくつもの演目がありますが、まず最初に上演されるのが「土蜘蛛」です。源頼光や藤原保昌らの酒呑童子討伐・土蜘蛛退治の説話がもとになっています。同様の土蜘蛛退治の演目は、久世の蔵王堂の六斎念仏でも上演されます。同じ話を題材とする能の「大江山」では、頼光との酒宴の席での童子の語りの中に、「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とある。伝教大師というのは最澄のことです。

ところで脱線しますが、藤原保昌の奥さんが和泉式部です。和泉式部は佐賀県杵島の福泉寺の生まれで嬉野市あたりで育ったお方です。

それから福岡県の有数の古族、筑後の蒲池さんが源融のご子孫です。源融の末の源満末が肥前国神埼郡の鳥羽院領神埼庄の荘官として下り、次子(あるいは孫)の源久直が筑後国三潴郡の地頭として三潴郡蒲池に住み蒲池久直と名乗ったのが初めだそうです。


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# by furutsuki_oto | 2017-03-16 20:26 | 摂津・山背・亀岡 | Comments(0)

円応寺 (北九州市)


円応寺 (北九州市)

件の皿倉(日枝)-中山ライン上に円応寺(えんおうじ)がある。所在地は 八幡西区上上津役5-13-5  「上上津役」は、「かみこうじゃく」と読む。

上津役(こうじゃく)は、奈良時代に律令で定められた駅(うまや)制度の駅で、中央と地方への命令、地方からの報告など連絡のために置かれた。平安時代、ここは役之郷と呼ばれ、役之郷がのちに上津役郷となりました。上津役は、古代から要所だったようです。

上上津役の円応寺近くに金山があり、そこからの湧水を水源とする金山川(きんざんがわ)が流れています。黒田長政も入国後に開発を継承しました。駅であるまえに鉱山だったのですね。また、上津役のすぐ近くの永犬丸西町の住宅地の一角で、タタラ吹き製鉄炉を持つ古代の製鉄跡、また古墳時代に使われた須恵器の窯跡の丸ヶ谷遺跡が発見されています。鉱山拠点としてはとても古いものであると想像できます。

実は、ラインを延長していくと、もうひとつの円応寺があります。小倉圓應寺とも呼ばれます。所在地は、 小倉北区清水4-5-2

ここは、香月氏と縁が深いようで、香月世譜を記した香月牛山(1656~1740)の墓があります。豊前中津藩に医官として仕えた人です。香月牛山の墓碑は、前述(山上宮周辺)の吉祥寺(北九州市八幡西区)境内にもあります。皿倉(日枝)-中山ライン自体が、鉱山と香月氏とに深くかかわるようです。

蛇足ですが、小倉圓應寺から1.5km東に黄金の地名が、2km東に宇佐町と中津口の地名があります。圓應寺は黒田家が拠点を遷した大分県中津市、福岡市中央区にもそれぞれあります。

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# by furutsuki_oto | 2017-02-26 17:42 | Comments(0)
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古月 乙彦 のブログ  神社とか星とか 古代のロマン.    Since 2016.1.22


by 古月 乙彦(ふるつき おとひこ)
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